1582年に発生した日本の歴史上、最大のクーデターと称される「本能寺の変」。なぜ家臣の明智光秀は主君の織田信長を討ったのか‥‥。その動機について、「信長を恨んだ末の謀反だった」というのが定説だったが、光秀の子孫がこれまでの議論に一石を投じたのだ。はたして431年目の新事実とは!?
「私が祖先の明智光秀の研究を始めたのは、20歳頃のことで、一冊の歴史本を読んでからです。それまで私の心の中には、『上司(織田信長)にイジメられて殺すなんて、そんな浅はかなことをする祖先だったのか』という疑問があったのですが、その本には『(怨恨説は)後世の軍記物による作り話だ』と書かれていて、明るい気分になれたんですよ。同時に『じゃ、何だったの?』という思いが募り、真実が知りたくて研究者の本をことごとく読みあさりました。ところが、読めども読めども納得がいかなかったんですよね」
そう語るのは明智光秀の子・於寉丸〈おづるまる〉の子孫で、「本能寺の変431年目の真実」(文芸社)の著者である明智憲三郎氏だ。明智氏は、大手電機メーカーに就職し、情報システム分野のエンジニアとして一貫して歩むかたわら、膨大な資料を読みあさり、その成果を著書や講演活動を通じて発表。これまでの「明智光秀=謀叛人」のレッテルとは違う“光秀像”を描き、発売から半年余りで26万部という異例のベストセラーとなっている。明智氏が続ける。
「私はド素人でしたし、歴史学者のように研究によって生計を立てていないので、効率なんて無視し、過去の研究成果をもとにもしなかったことで、今までと違うやり方でアプローチできました。それは犯罪捜査の手法のような、さまざまな証拠から蓋然〈がいぜん〉性(確からしさの度合)の高い真実から復元することでした。決して(思い込みによる)答えを持たず、信憑性のある資料から徹底的に証拠を集め、本能寺の変を洗い直しました」
つまり、これまでの「光秀の謀叛説」を裏付けるような資料についても、あえてもう一度、自分の目で調べ直して“信頼に足る”情報のみを取捨選択。「本能寺の変」の真の動機について、解明しようと試みたというのだ。
その結果、本能寺の変は「逆臣=明智光秀」どころか、徳川家康との談合のあげく、やむにやまれず、信長討ちを果たすことになったと結論づけている。明智氏が言う。
「信長は、徳川家康を本能寺に呼び寄せ、光秀に討ち取らせるつもりだった。ところが、この計画を聞いた光秀は、ゆくゆくは明智一族も滅ぼされると思い、家康と織田家打倒を決意。家康との談合の末に、信長と息子の信忠の間隙を縫って決起したのが本能寺の変だったんです。現代でこそ、信長が家康を討つなどありえないと驚く話であり、研究者の中にも『あの時点では討つわけがない』と決めつける方もいますが、(信長が重用した)光秀の兵たちにとって『家康討ち』は常識であったとうかがえる資料が複数あります」
光秀が一族の滅亡を恐れて先手を打ったという“新説”を唱えるのだ。