菅原文太の一大出世作「仁義なき戦い」が生まれるのに欠かせなかったのが、深作欣二監督との出会いである。ともに従来の映画界の「定型」にこだわらないタイプで、その強烈な個性同士がぶつかり、激しい“化学反応”を起こしたのだ。文太が語った伝説のヤ○ザ映画への、たぎるような思いとは──。
鶴田浩二や高倉健で一世を風靡したそれまでの着流し任侠映画が正調ド演歌であるなら、「仁義なき戦い」で展開されていたのは、まさにモダン・ジャズのような世界であったろう。
文太自身、昭和56年(1981年)に発刊された「東映映画三十年」(東映)でそう述べ、
〈‥‥混沌、喧噪、生々しさ、レジスタンス、荒々しさ、センチメント、アドリブ、それらがあの時大きなボイラーの中で悲鳴をあげていた。
俺だけでなく、旭が、欣也が、梅宮が、渡瀬、室田、拓三、志賀勝が、金子さん、加藤武さん、三樹夫さん、方正さんが、思えばマイルス・デービスであり、キャノンボールであり、サム・ジョーンズ、ハンク・ジョーンズであり、アート・ブレーキィ、ボビィ・ティモンズ、リー・モーガンであったと思う〉
と記している。相当なモダン・ジャズ好きの通であることがうかがえる文章である。
11年前に取材した折、そのことを本人に問うと、
「そんなことを書いてたかなあ、オレ(笑)。まあ、いい加減な思いつきで書いてるだけだ」
との答えが返ってきたのは、照れもあったのだろう。こちらがさらに、
「まさに演歌の世界だったそれまでの任侠映画のパターン化した様式美をぶち壊すという意味では、『仁義なき戦い』はモダン・ジャズだったのでは‥‥?」
と水を向けると、
「それはそうかも知れない。演歌にしても譜面があってアレンジしたにしても、譜面通りに演奏して歌うわけじゃないですか。ジャズというのはアドリブだから。そういう意味では、そんな映画だったかも知れないね。ほんとにアドリブだったから。みんな俳優が好き勝手に演奏してそういうもののハーモニーができあがるみたいなね‥‥」
ジャズというなら、役者以上にそんなような世界を体現していたのが監督の深作欣二だった。深作組は事前に入念に打ちあわせをしてから撮影に臨むというより、すべては現場スタート。深作組は深夜作業組の略だというジョークが出るくらい、深作監督の撮影は夜中まで続くのがつねで、深夜になればなるほど誰よりも元気になるのが深作組であったという。
スターや名の売れた役者より無名でもおもしろい個性派を起用し、撮影現場で彼らから、
「こういうことをやっていいですか」
と芝居のアイデアが出れば、おもしろがって受けいれる監督でもあったという。
「まあ、サクさんは定型がなかった監督とも言えるんじゃないかな(笑)。俳優に好きにやらせて、その中のいいものを見つけて、『それだあ!』てなこと言うからね、あの人は。『ダメだあ!』なんて掛け声はしょっちゅう。それでも、誰も深作さんの怒声にビビるヤツもいなければ、逆にあの叫び声が心地よかったんじゃないかな。だから、生き生きとしてみんなも動けたと思う。それはやっぱり愛情があったんだろうなあ、サクさんに。オレにも拓ぼん(川谷拓三)にもまったく同じように公平に扱ってくれるというのが、みんな何とも心地よくてね。深作さんの術にはまってしまっている。何も言わなくても、勝手に一人ずつが動いてくれるという雰囲気になってくるんだなあ」
とは、文太の述懐であった。
◆作家・山平重樹