文太と深作が俳優と監督として昭和44年(1969年)7月の鶴田浩二主演の「日本暴力団 組長」で出会い、初めて主役・監督コンビで撮ったのが、昭和45年1月の「血染めの代紋」だった。
が、2人にとって決定的な作品となったのは、「現代や○ざ 人斬り与太」(昭和47年5月)と続けて撮った「人斬り与太 狂犬三兄弟」(同年10月)の2本であった。この「人斬り与太」で両者は互いを強く意識し、同志的に結びついた。
深作が、「一番悪いヤツを主人公にした映画を撮りたい」と望んで撮った作品が「人斬り与太」で、その主役のイメージにピッタリ合う役者が文太だった。文太もその役をいたく気に入り、喜々として取り組んだ。文太が演じたのは、徹底して組織に楯突き、本能のままに暴れまくるチンピラ。それまでも与太者シリーズで演じてきた馴染みのキャラクターではあったが、それはさらに徹底していた。女を力づくで犯し、拳銃で撃たれては「医者だあ!」とわめき散らすような、鶴田や健さんとは幾億光年もかけ離れたアンチ・ヒーロー。それを文太はギラギラと目を光らせ、飢えた狼のように熱演しているのだ。
深作は文太を「飢餓俳優」と呼び、その役者との出会いを運命的に感じていた。
文太もその役こそ自分の適役であり、進むべき方向性として、そこに役者としての活路を見いだした。
2人にとって、そこから「仁義なき戦い」までは一直線であった。
文太もズバリ、
「あの『人斬り与太』の2作品がなければ、オレはサクさんと組むことはなかったろうと思うね」
と語り、
「サクさんも当時の他の若手の監督も含めて、若手の俳優やわれわれ遅れてきた俳優にとっても、やはりなんか変えていかないと、任侠映画の亜流というか、そういう流れだけを追っていったんではうまくない。なかなか弾けられないんじゃないか、だから、今までの任侠映画の中でやらなかったことをやろうじゃないかという話は絶えず出てたよ、飲んだりすると。そういうような流れが『仁義──』へなだれこんだんだろうね」
「人斬り与太」のあとに「仁義なき戦い」の企画が本決まりとなり、まだその監督が決まらず、東映の大勢が京都撮影所の監督で行くという空気のときも、文太は俊藤浩滋プロデューサーに対して、
「深作はいいですよ。深作欣二で行きましょうよ」
としつっこく推し続けたという。
最後は俊藤自身、「人斬り与太」を高く評価していたこともあり、また強く閃ひらめくものがあったのだろう。
「そうやな、深作で行こう」
と大プロデューサーのひと声で深作監督が決定、それが結局は大正解となったのだった。
文太・深作コンビの「仁義なき戦い」は大ヒットし、東映の任侠路線から実録ヤ○ザ路線への大転換を決定づけた。スターといっても鶴田、高倉、若山に次ぐ4番手、いまひとつの感があった菅原文太を、一躍東映のエース、ドル箱スターへと押しあげたのである。このとき、文太、39歳。40歳目前の遅咲きであった。
◆作家・山平重樹