週刊アサヒ芸能での連載が今年で18年目に突入する「天才テリー伊藤対談」。新春の超特大ゲストは、昨年さまざまな話題を振りまいた清原和博氏。「違法薬物使用疑惑」報道をきっかけに黒い噂が業界を駆け巡ったが、今回久々にメディアに登場。天才テリーを前に一連の騒動や野球への思い、まさかの自殺願望発言など、洗いざらい全てをブチまけた! コワモテがトレードマークの「番長」が浮かべた男涙の理由とは?
テリー 清原さん、お久しぶりです。
清原 お久しぶりです。実は、こういうちゃんとしたお仕事をいただいたのは、テリーさんが本当に久々で。
テリー そうなんですか。ありがとうございます。
清原 本当に僕、感謝しています。まあ「アサヒ芸能」さんにはさんざん書かれているんですが(笑)、対談相手がテリーさんだったので。
テリー しかし、ずいぶん痩せましたよね。
清原 ええ、僕、糖尿にかかってまして。お医者さんから、とにかく体重を落とさないとまずい、と言われました。
テリー どういうふうに落としてるんですか。
清原 ここ2、3カ月、お酒はやめてます。ワインとかシャンパンだと太るので、そういうのは一切。飲んでも、ビール1杯や2杯にしていたら、どんどん体重が落ちましたね。あと、食事制限もありますし。
テリー お酒を飲まない日々ってどんな感じですか?
清原 まず表に出ると、週刊誌だとかそういうのに狙われる可能性も高いので、あんまり盛り場には行かずに、だいたいひっそり‥‥新宿に韓国料理屋さんがあるんですけど、そこでテレビ見ながら、ひとりで飯を食って。ま、今年は週刊誌のこともあったし、離婚もありましたし。
テリー 俺さ、清原さんほど誤解されている人っていないんじゃないかと思うんですよ。
清原 どうですかねえ‥‥。
テリー 俺が知ってる清原さんって、いいイメージしかないのね。巨人時代にベンチで少し話す機会があったのと、今から2年ぐらい前かなあ、雨の中、神宮で清原さん、1人で雨に打たれながら走ってたんですよ。
清原 あ、早朝、テリーさんが自転車に乗られてた時ですか。
テリー うん。その時に清原さんが雨の中を走ってて、俺の前で止まって挨拶をしてくれたんですよ。「こんにちは」って言って、また走っていったんですね。そのあと、清原さんはフェラーリに乗って帰っちゃったんだけども(笑)。
清原 ハハハハハ。
テリー なぜかみんなに「コワモテ」とか言われるんだけど、すごいピュアで優しいよね。ちょっと不器用かもしれないけども。何でこんなに週刊誌に追われちゃったりするんだろう? それが俺、残念というか、悔しいんだけどね。
清原 まあ、「フライデー」とはかなりバトルしましたけど(笑)。でも以前、イチローと食事した時に、「嫌われているということは、逆に注目されているからだ」と諭されてからは、「あ、そういう考え方もあるんやな」と思えるようになりました。さすがに巨人時代は、マスコミに叩かれたりいろいろしていても、別にバット1本で返せていたんですよ。ホームランをガツンと打てば。
テリー そりゃそうだ、何言われようが、ホームラン打っちゃえばいいんだもんね、野球選手は。
清原 それが今バットを置いて、いざ週刊誌に書かれた時に、僕に叩く道具がないんですよね。世間を黙らせるような。なのに引退してからも、なぜまだこういうふうに書かれるんだろうと。現役時代はしょうがないなと思うんですけど。
テリー 巨人時代はどうだったんですか。
清原 やはり(西武)ライオンズから巨人に行った時、皆さん、「なぜ巨人に?」という疑問もたくさんあったと思うんですけども、やっぱり「日本一になりたい」という思いが強くて。あと、松井秀喜という存在もありましたから。
テリー どうでした、松井は。
清原 いや、本当に僕はタイトルを取れなかったんですけども、フリーバッティングしても飛距離は負けてないし、技術的にもそんなに負けてないと思いました。何が違うかというと、彼はあの当時、140試合全ての打席を同じ集中力で立てるんですよ。普通は(自分が)負けてる試合なんて気分が下がるじゃないですか。僕らはパ・リーグ育ちなんで、早く試合を終わらせて遊ぶことばっかり考えてましたけど(笑)。
テリー アハハハハ。いいですねえ。これが清原ですよ(笑)。
清原 どんな試合でも、松井はトータルで同じ集中力を出すので、数字として残るんですよね。でも松井がくしくもヤンキースに行く時に残していった言葉が、「僕がホームランを50本打っても清さんには勝てない」と。まあ松井は松井なりに、「何で俺が50本ホームラン打っても、球場での声援は清さんのほうが多いんだろう」というジレンマがあったんだと思いますね。
テリー 何をしでかすかわからない、清原という野球選手の凄さをたたえた言葉ですね。それを言われた時はうれしかった?
清原 うれしかったですね、素直に。
●ゲスト:清原和博(きよはら・かずひろ) 1967年生まれ、大阪府出身。83年夏、PL学園の1年生にして4番を打ち、5期連続で甲子園に出場し、史上最多の13本の本塁打を放つ。85年、ドラフト1位で西武に指名され入団。86年、打率3割4厘、本塁打31本、打点78で最優秀新人賞を獲得。96年にはFA宣言で読売巨人軍に移籍。05年にオリックスに入団し、サヨナラ安打およびサヨナラ本塁打歴代トップに立つ。08年シーズンをもって現役を引退、現在に至る。