半世紀続く国民的番組の裏には、画面に映らなかったさまざまなドラマが存在した!!
番組内で軽妙な罵り合いを繰り返した三遊亭小遊三と桂才賀、そして最年少の林家たい平──新旧大喜利メンバー3人が明かす、知られざる「笑点」。ここだけの噺を木戸銭も取らず、徹底的に語り尽くした!
1966年5月15日の放送開始から50年、ついに本日の生放送で、桂歌丸(79)が番組を卒業する。公式発表の前に大喜利メンバーを集め、
「とにかく体が大変だから、何かあって番組に迷惑をかけてはいけないので、卒業を決意したんだ」
と伝えた歌丸。前身番組「金曜夜席」から唯一出演を続けてきた“ミスター笑点”だが、出演は命がけだったという。
大喜利メンバーである林家たい平(51)が、壮絶な舞台裏を明かす。
「最近は小さい酸素ボンベをご自分でカラカラ引いて収録にいらっしゃるんです。高座に上がる前は、だいたい酸素を吸入されていました。まずい答えでも、歌丸師匠に笑いに変えていただいたことは多かった。本当に師匠の名司会に助けられていたんです。だから卒業と聞かされた時は、つっかえ棒を急に外されたようなショックを受けましたね」
「大喜利」で、歌丸の近くに座っていた三遊亭小遊三(69)はこう漏らした。
「実際、相当つらそうでしたから。『笑点』ほどの番組を自分の責任で回す、っていうのは、負担もすごいものがある。あのお年になって落語もやって、『笑点』もやって、というのは難しいでしょうし。師匠が悩んで決めたことなんで僕らは受け入れるだけですよ」
今でこそ誰もが認める国民的番組「笑点」。だが、産声を上げた当初は、少し趣が違っていたという。まだ観る側だった小遊三が振り返る。
「当初は、“時の人”立川談志師匠をはじめ落語界の新しい人たちが出る、新鮮な若者向けの番組でした。僕も学生の頃はよく観ていて、出演者が若いもんだから親しみを感じていましたね」(前出・小遊三)
その故・談志に、人気者の故・五代目三遊亭圓楽、まだ二つ目だった桂歌丸、林家こん平(73)、故・柳亭小痴楽(のちの春風亭梅橋)、故・三遊亭小圓遊が加わり、番組はスタート。しかし、視聴者をなかなか獲得できなかったのだ。その原因について、歌丸師匠は自著「座布団一枚!」(2010年・小学館)で次のように分析している。
〈始まった当初の『笑点』は、もちろん談志さんが前面に出ていました。談志さんはブラックユーモアを大変好む人でしょう。(中略)今ならともかく40年以上前でしょう。ブラックユーモアがきつすぎたんだと思います〉
番組が“ハネた”のは1970年代に入ってからのこと。70年に三代目司会者としててんぷくトリオの故・三波伸介を迎え、一気に人気番組の座へと駆け上がる。74年には、歴代の最高視聴率40.5%を記録。三波は「笑点」の“象徴”となった。