テリー 日本へ引き揚げてきたのはいつですか。
矢追 12歳、小学校6年の時です。やっと東京に着いたものの、母親が心臓を悪くして入院したので、そのベッドの下にゴザを敷いて、僕ら子供3人はそこから小学校に通ってね。
テリー よくそんな環境で大学まで進学できましたね。よっぽど熱心に勉強したんですか?
矢追 いえ、全然。終戦後のゴタゴタで人生観が大きく変わったんですよ。本当に生きるために何でもやっているうちに、金や財産、名誉、プライド、生命──あらゆることに執着がなくなりまして。
テリー 要するに“欲”がなくなった、と。
矢追 そう。でも不思議なことに、そうなると何でも自分の思ったようになるんですね。勉強しないし、努力もしたことがないのに、大学には受かっちゃった。
テリー 矢追さん、UFOに答えを教えてもらったんじゃないの?(笑)。じゃあ、何でテレビ局に入ろうと思われたんですか?
矢追 いや、これも全然思ってなかった。高校の頃から日比谷公会堂の隣のビルでエレベーターボーイのバイトをしていたんだけど、そこに月に一度だけ来るおじさんがいたんですね。顔を合わせたら挨拶するぐらいの関係だったんですが、大学4年のある時、「キミ、就職決まった?」って突然声をかけられて、「まだ何にも考えてません」と答えたら、「じゃあ、日本テレビを知ってるか?」と。
テリー 誰なんですか、その人は?
矢追 当時の日テレの著作権課長。著作権協会がそのビルにあったから、月イチの会議で来てたわけ。で、その人の好意で、当時麹町にあった日テレを見せてもらったんです。その頃僕は、テレビは力道山のプロレスぐらいしか観てなかったから、「日テレというのは、きっと力道山の会社なんだな」と思ってね(笑)。
テリー アハハ、確かにスタジオって、リングさえ組めばプロレス会場みたいですよね。
矢追 しかも「入社試験を受けるには推薦人が必要だけど、もし受ける気があるなら僕がなってあげる」と言われて。で、実際に受けたら合格したんです。
テリー そこまで手厚い扱いなのが、また不思議ですね。入社してからは、どうでしたか。
矢追 最初の3年くらいはドラマ班に配属された。でも僕、ドラマが嫌いでね(笑)、主人公が家出して家庭が崩壊するみたいな話ばっかり作ってたら、めちゃくちゃ視聴率が低くて。
テリー そんな内容じゃしかたないですね(笑)。
矢追 で、次にバラエティ班に移るんですが、それもおもしろくない。と思っていたところに、「11PM」が始まるんです。
テリー おお、日テレの伝説の深夜番組ですね。
矢追 そうそう。で、当時の上司の後藤達彦さんに泣きついて拾ってもらったんです。
テリー 後藤さん、僕もすごくお世話になりました。いつもいい服を着て、ダンディな方でした。
矢追 ええ。で、後藤さんから「お前の好きなことをやってみろ」と言ってもらえたから、考えましてね。その頃、心に余裕がないのか、日本人が前ばかり向いてタッタタッタ歩いてばかりなのが気になっていたので「みんな、たまには立ち止まって空を見ようよ」っていう番組を作りたくなってね。そんな時、たまたま本屋さんで目にしたのが「空飛ぶ円盤」の本だったんですよ。