2010年のバンクーバーでは明暗がくっきりと分かれた。銀メダル獲得とはいえ、浅田真央が獲りたかったのは、キム・ヨナが手にした金メダルだ。あれから3年近くが経過。紆余曲折の末、再びソチ五輪に向けて走りだした宿命のライバル2人の“変化”を徹底比較したい。
12月8日、日本女子フィギュア界のエース・浅田真央(22)が、4年ぶり3度目となるGPファイナル優勝を果たし、11月の中国杯、NHK杯に続いて、今季3連勝を決めた。
14年に五輪の開催地となる、ロシア・ソチの同会場で達成したのは吉兆だが、この時点で、今季世界最高の196・80点を叩き出すおまけも付き、完全復活を印象づけたのである。
思えば、10年のバンクーバー五輪で宿命のライバル、韓国のキム・ヨナ(22)に敗れて銀メダルを獲得して以来、浅田は苦戦を続けてきた。
「直後の世界選手権こそ制したものの、ジャンプの矯正がうまくいかなかった翌シーズンは1度も優勝しないまま終了した。続く11︲12シーズンも、最愛の母の死という不幸にも見舞われて、3季ぶりのGPファイナルを欠場したり、2年連続で世界選手権を6位で終わるなど低迷を続けました」(スポーツライター)
その原因として、体型の変化があげられた。
スケート連盟関係者が話す。
「浅田はもともと、父母も背が高いことから、体型の変化で苦しむことは危惧されていた。現に姉の舞(24)は、太らなかったものの身長が伸びたがためにダブルアクセルを跳べなくなったと言われ、セミリタイア状態です。浅田も骨格が一回り大きくなり、その体型の変化にあらがえなかった。ジャンプする時の重心のかけ方に微妙な乱れが生じていたようです」
そんなピンチも、バンクーバー以後の低迷期、佐藤信夫コーチ(70)に師事したおかげで徐々に克服していったというのである。
体型問題に直面した浅田は、それでも代名詞であるトリプルアクセル(以下3A)にこだわりを見せた。しかし、佐藤コーチは、スケーティング技術の向上なくしては選手として手詰まりとなる可能性があること、ましてキム・ヨナには勝てないことから、当面はそのこだわりを捨てさせたのだ。
「ライバルである、キム・ヨナのスケーティングは滑りだした際にエッジが氷とすれるザザッという音が全然しないんです。これは、佐藤コーチが理想とする、『パンの上にバターをスーッと塗る』滑りと合致し、浅田との差の一つと認識していた。佐藤コーチは『ジャンプはスケーティングの続き』との考えを持っていますから、まずスケーティング技術を磨くことで、ライバルとの差を縮め、得意のジャンプにも相乗効果をもたらそうと指導を続けたんです」(前出・スケート連盟関係者)
その結果、先のGPファイナルのように、浅田は得意の3A抜きでも高得点を出すまでに進化を遂げたようだ。
進化といえば、先にも触れた、実母の死というショックを乗り越えたことも大きい。さらにそのうえで、別の技術向上に明け暮れていたのである。
「浅田は今年4月から3カ月間、氷上の練習を取りやめ、ハンガリーに渡ってバレエのレッスンに時間を費やしました。演技力を増した彼女は今、結果を出しているとともに、半年前には触れられなかった、お母さんの話を、周囲にできるほどまでに精神力の強さを見せているのです」(スポーツ紙デスク)