「奇跡の38歳」と呼ばれ、癒やし系のキャスターとして大人気となった丸岡いずみ(42)。しばらくテレビから消える原因となった「うつ病の恐怖」を赤裸々に明かした。
〈母親にヒ素を盛られてしまった。このままでは殺されてしまう‥‥〉
それは「幻聴」と「幻覚」がもたらす“限りなき末期に近い症状”だった。療養のために帰省した実家で、母親に殺されると思い込んでしまったのだ──。
日本テレビの「ミヤネ屋」に出演し、司会の宮根誠司との軽妙なやり取りで遅咲きのブレイクを果たした丸岡は、いつしか画面から遠ざかっていた。11年8月の放送を最後に、体調不良を理由に休養。徳島県北西部の実家で「うつ病」の治療に専念する。
そんな日々をつづった告白本が9月20日に出版される。タイトルは「仕事休んでうつ地獄に行ってきた」(主婦と生活社)と生々しく、時間とともに症状が悪化してゆく様子が記されている。例えば──、
〈11年8月中旬、パタリと眠れなくなる。下痢もひどい。なんかおかしい、と心療内科へ。処方された睡眠導入剤は怖くて飲めなかった〉
〈8月29日、自分が何を話しているのかわからなくなる。山、川といった文字にもルビを振らないと、怖くて原稿を読めなかった〉
丸岡が発症するきっかけとなったのは「東日本大震災」だった。報道キャスターとして凄惨な現地を飛び回るうち、頭に発疹ができるほどのダメージを受ける。PTSD(心的外傷後ストレス障害)予防のための研修も受けていたが、海上自衛隊の護衛艦に乗船して目の当たりにした「無数の水死体」には効果はなかった。
「人の不幸を報道してきたことの報いで苦しんでいる」
丸岡はのちに、当時の仕事について、そんな自責の念を持ってしまった。震災から約半年後に休業したが、マスコミの目や日テレ社内での“冷たい仕打ち”も丸岡を苦しめたという。
「まだ正式に退社していないうちから、報道局にあった丸岡のデスクには別の者が座って仕事をしていた。地方の局アナから日テレの報道局採用で入社し、さらには報道番組のメインキャスターにまで出世したから嫉妬も多かったようです」(日テレ関係者)
そんな気配を感じたのか、丸岡は帰省に至った理由をこう明かした。
〈このまま東京にいたら「飛び降り」「飛びこみ」しそうで怖かった‥‥〉
藤圭子の訃報に日本中が衝撃を受けたが、その2年前に丸岡にも「あわや!」の危機があったのだ。ただし、帰省を決意したものの、飛行機に乗るのも一苦労。
〈徳島まで1時間のフライトは悶絶の時間。外に飛び出したくて仕方なかった〉
そして冒頭のように、母親からの毒殺を疑うまで症状が悪化。本格的な強制入院と、のちに夫となる映画コメンテーター・有村昆氏の励ましでようやく“生還”に至った。
「今、うつ病で苦しんでいる方、周りでサポートしている方へのヒントになるんじゃないか」
今回、出版に至ったのは、夫のそんなアドバイスからである。そして丸岡も、凄絶な過去と向き合った理由をこう語った。
「患者本人が書いた本はなかなかない。乗り越え方についても共感していただけるのでは」
今こそ「奇跡の42歳」と名乗る価値がある。