国民的長寿番組の「笑っていいとも!」が31年半の歴史に幕を降ろした。スタートからの悲願であった「吉永小百合をゲストに!」も、最終回にて大団円を迎えた。それにしても──バラエティと縁が薄い小百合とはいえ、ここまでタモリを避けていた理由は何だったのか、教えてくれるかな?
「タモリが芸能界に入った時から『神です、女神です』ってあがめていたよ。それだけじゃなく、番組で1コーナーを作りたいって言ってきたから」
そう語る放送作家の源高志氏は、タモリ(68)が全国区の知名度を得た「金曜10時! うわさのチャンネル!!」(日本テレビ系)からのつきあい。ここでタモリは76年からレギュラーとなり、3分ほどのミニコーナーを持っていたが、こんな提案をしたことがある。
「真面目に『吉永小百合様へ捧げる手紙』を読み上げよう、と言うんだ。オンエアこそならなかったけど、台本はしっかり作ったよ。それこそ高校生が電車で女子高生に渡すラブレターのような純情な文面でね」(前出・源氏)
それほどタモリにとって“永遠の憧れ”である吉永小百合(69)が、最後の夢をかなえてくれた。3月31日にオンエアされた「笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号」(フジテレビ系)に、待望の初出演を飾ったのだ。
1982年10月4日に番組がスタートして以来、31年半を要しての快挙を、芸能レポーターの石川敏男氏が解説する。
「タモリは番組を辞めるつもりはなかったけど、視聴率低迷からの脱却を図る亀山千広社長の“ツルの一声”で終わった形。最後にフジが一丸となって小百合さんを呼んだのは、功労者のタモリに対して当然のこと。小百合さんにしても、長寿番組の最後に断る理由もないだろうし」
映画の公開前であってもバラエティに出ることの少ない吉永であるが、今回ばかりは話が別。秋に公開予定の「ふしぎな岬の物語」(東映)は、55年の女優生活で初めて「企画」の欄にもクレジットされている力の入れようだ。双方の思惑はみごとに合致した形になる。
そんな憧れのマドンナを、タモリは10代の頃から間近で見つめていた。65年に吉永が早稲田大学第二文学部に入学することを表明すると、タモリも一浪の末に同じ早大の二文に入学。
すでに国民的な女優であった吉永と、名もない若者だったタモリ──。
「モダンジャズ研究会に入部したんだけど、先輩に竹刀でブン殴られてシゴかれてね。そんな日々の中で、たった一つの希望っていうか、生きる支えが『いつか小百合さんに会える』ということだった」
のちにあるインタビューでこう回想しているように、タモリの「サユリスト」としての歴史は筋金入り。さらにタモリは、何としても会いたいと思い、学生食堂のおばさんにリサーチをかける。その結果、週に2回は友人たちと夕食に訪れ、メニューは決まって中華丼だと聞き出す。
「それから10日ほど夕方6時になると学食に来て、中華丼を食べ続けたけど、会えずじまい。坂道を『小百合さまぁ~、小百合さまぁ~』って叫んで帰ったさ」
そしてついに「その日」がやって来た!
◆アサヒ芸能4/1発売(4/10号)より