北氏は言う。
「恐らく多くの日本人にとって、拉致事件の解決とは、その象徴である『横田めぐみさん拉致事件の解決』を意味します」
77年11月、新潟県で拉致された13歳のめぐみさんは、北朝鮮に向かう工作船の真っ暗な船倉で泣き叫び、手の爪が血だらけになるまで出入り口や壁をひっかいたという。北朝鮮で絶望の日々を送るめぐみさんは一大決心をし、ある人物に「両親への手紙」を託した。かつて北朝鮮で暮らし、現在は脱北して韓国に住む李成昌(リ・チャンソン)氏だった。
日本の中国地方出身の在日朝鮮人だった李氏は現在70代。20歳の頃に北朝鮮に帰国し、政府関連の柔道コーチの職に就いた。
89年、当時の最高指導者・金日成主席は前年に韓国で行われたソウル五輪に対抗し、3億ドルを投じて「第13回世界青年学生祭典」を平壌で開催。これは主に共産主義国が中心となって、スポーツ、文化芸術、政治のプログラムが実施される祭典である。
李氏が重い口を開いた。
「その年の祭典開催前のある日、仕事で呼ばれた私は平壌の凱旋門そばにある金日成スタジアム付近で、同じスポーツ関連の仕事をする朴(パク)さん、尹(ユン)さんとしゃべっていた。この2人も私と同じ時期に帰国した仲間で、3人とも日本語はペラペラです。そこに女の人が1人、ウロウロしていた。どうやら日本人らしき人、日本から来たと思われる人が集まっているところを探しに来たみたいでした。祭典のために日本人選手や交流団などが来ることを知っていたようで、1時間近く、あちこちをのぞいたりしているので印象に残ったのです。背がスラッと高くて、北朝鮮の女性とは違う顔つきでしたし。そのうち、女性は私と一緒にいた尹さんに近づいて、『頼みます。日本に持って行ってください』と言って封筒を渡し、立ち去ったんです。私たち3人は日本語でしゃべっていたので、日本から来た連中だと思ったんでしょう」
李氏らは当時、拉致のことはもとより、めぐみさんの存在すら知らない。突然、見知らぬ女性から封筒を渡され、わけがわからなかったという。一方、めぐみさんとすれば、北朝鮮から郵便物を送れば当局に開封され、場合によっては弾圧されたかもしれない。「日本とつながりのある第三者」を探し、ひそかに託すしかないと判断したのだろう。
あっけにとられる李氏らが封筒を開封して中身を確かめると、そこには便箋に4、5枚の手紙がしたためられていた。
「サラッと見ただけだったけど‥‥」
と語る李氏によれば、内容は次のようだった。
〈私はある経緯で北朝鮮に来て、北朝鮮で生きています。朝鮮語もできるようになったし、とにかく無事でいます。でも両親と弟には会いたくてしかたがない〉
李氏は言う。
「あとになって、拉致被害者の写真が出た時、『あ、あの時の子だ』と思いました」