公演先の福岡で股関節や太腿に激痛を感じ、済生会福岡総合病院に緊急入院。精密検査の結果、慢性肝炎および大腿骨骨頭壊死と診断された。慢性肝炎の原因は明らかに酒だった。
「いずれ人工関節を入れる手術が必要ですが、脾臓が肥大しているため、白血球が減少しています。手術を急ぐと出血する可能性が高い」
医師団の説明に、さすがのひばりも衝撃を隠せなかったが、「もう一度、ファンの前で歌いたい。美空ひばりは死なない──」。この時49歳の彼女は、こんな決意を語っている。
3キロの重りで腰を牽引して伸ばし、痛みを和らげる治療を受けながら、体力の回復を待った。
そんなひばりを片時も離れず見守ったのが、最愛の息子・加藤和也氏だった。和也氏はひばりの実弟・かとう哲也の息子として生まれた。生みの母の記憶はまったくないという。物心がついた時には、ひばりを「ママ」と呼んでいた。77年にひばりはその和也氏を長男として養子縁組。和也氏が5歳の時だった。
歳月は流れ、和也氏は16歳に。多感な季節のただ中で、彼は壮絶なまでに歌手として生きる母の姿と対峙することになる。「再起不能説」が流れてから1年。88年4月、今や伝説となった復帰公演「美空ひばり~不死鳥コンサート」が東京ドームで開かれた。
「僕はあのコンサートに疑問を抱いていた。だから『やめてくれぇ』と‥‥」
今から8年前、ひばり17回忌の折にインタビューした際、和也氏はこう明かしてから一気に続けた。
「コンサートの準備段階で『こんなことやめてくれよ。あんたら、寄ってたかって人の親を殺す気か!』って、関係者の誰かれかまわずに声を荒らげましたよ。だって単純に考えても、体の調子が悪い人に歌わせるという感覚が、僕にはわからなかったし、我慢ができなかった。けど、16歳のガキがどんなに騒いでみたところで、どうにも止まりませんでしたよ」
心なしか苦笑いを浮かべた和也氏だったが、この時、彼は「ひばりプロ」の一員として本気で母を支えるしかないと、心に誓ったのだった。この復帰公演は2時間半、39曲を歌いきり、5万5000人の観衆を魅了したが、ひばりは日記にこうつづっている。
〈和也に「ママが頑張ったから泣いてるの?」って聞いたら「ママの衣装がまぶしかったから目をこすっていたんだよ。なんで俺が泣かなくちゃいけないんだよ」って。やっぱり男の子ですね。でも嬉しかった。幸せでした〉
昭和天皇が崩御して約1カ月後の89年2月5日、立っていることさえ不思議な体で、ひばりはコンサートツアーに赴く。公演に先立って、和也氏が主治医に相談すると、別室でこう告げられた。
「肝機能は一進一退ですが、静脈瘤が発見されました。破裂を起こす寸前です。ステージで血を吐いたらもう助かりませんよ」