それは「芸能界の常識」をことごとく打ち破る出来事だった。B級アイドルに見られていた2人組は、たちまちミリオンセラーを連発。時には大人たちが眉をひそめるゲリラ的な戦略が功を奏し、やがて、国民的なモンスターとなった。歌謡曲がテレビ界の中心にあった時代、ピンク・レディーに関わった軍師たちは、斬新な発想で境界線を突破していった──。
歌うミー(根本美鶴代)とケイ(増田恵子)、作詞・阿久悠、作曲・都倉俊一、振付け・土居甫(どいはじめ)、衣装・野口庸子、プロデューサー・相馬一比古、そしてビクターのディレクター・飯田久彦──。
これが「ピンク・レディー」という巨大な幻想を作り上げた“七人のサムライ”ということになる。すでに阿久と土居、相馬の3人が鬼籍に入っていることが70年代の遠さを、そして過酷な作業であったことを物語るようだ。
「ビクターの上層部には『何であっちを指名しなかったんだ!』とどなられましたよ。でも、僕が作りたいと思ったのはミーとケイの2人だったから」
飯田は「ルイジアナ・ママ」のヒットで紅白にも出場した歌手だったが、75年にディレクターとしてビクター音産に入社。そして76年2月16日、日本テレビの「スター誕生!」で14社が指名した清水由貴子には目もくれず、会社の反対を押し切ってミーとケイを獲得。
前年に大好きなザ・ピーナッツが引退したことを受け、踊って歌えるユニットが欲しいというのが飯田の理由だった。
「ただ、2月にスカウトして8月25日にデビューさせるというのは突貫工事もいいところ。当時の新人賞レースに間に合わせるには、じっくり準備して翌年の3月か4月にデビューさせるのが常識でしたから」
76年の新人賞レースは新沼謙治と内藤やす子が独走していた。ここに後発のミーとケイが対抗するためには、大胆な発想こそが必要と飯田は思った。
まず、ユニット名の候補だった「白い風船」ではなく、都倉が命名した「ピンク・レディー」という刺激の強いものにした。デビュー曲もB面の「乾杯お嬢さん」と、土居が考案した股を開く振付けの「ペッパー警部」で意見が分かれたが、飯田や阿久が推した「ペッパー警部」に決定。
「今思えば、新米ディレクターがことごとく会社を無視してますよね。老舗のビクターでしたから、股を広げるダンスに『会社として恥ずかしくないのか!』と言われた。ただ‥‥賛否両論は大いに結構です。総論賛成なものって、ヒットには結びつかないと思っていましたから」
飯田はマネジャーである相馬と、2人のファッションについても意見が一致した。この76年はロングスカートが全盛期だったが、だからこそミニで勝負しようと思った。そのため、プライベートでもミニスカートかホットパンツで過ごすことを徹底させたという。
本来、さわやかなフォークデュオを目指していたミーとケイは、あまりの環境の変化に、ふと飯田に漏らしたことがあった。
「私たちじゃなくても良かったんじゃないですか?」
静岡から上京した素朴な2人にとってみれば、スパンコールのついた超ミニの衣装でのデビューは考えてもみなかったことだろう。
ただし、165センチのミーと163センチのケイ──当時としてはダイナミックでオーラを放つ肉体があってこそ実現したプロジェクトであった。