86年から87年にかけ、筆者は多くの現場で明菜の多彩な表情を見た。渋谷公会堂で行われた「ザ・トップテン」のリハーサルでは、後輩の石井明美が歌う「CHA-CHA-CHA」を、同じ振付けで楽しそうに口ずさんでいる。
一転して三田の教習所で路上講習の姿をキャッチされると、マネジャーも抑えられないほどに激しい動揺を見せた。本人は好きではなかったという「少女A」の歌詞そのままに、〈私は私よ、関係ないわ〉と言いたげだった。
そして歌詞は〈本当は臆病、わかってほしいのあなた〉と続く。89年7月11日、日本中に衝撃を与えた「近藤真彦宅での自殺未遂」は、そんな痛切なメッセージをあらためて感じさせた。
その日、明菜は近藤のマンションで、浴室で血を流して倒れていた。近藤が帰宅すると、明菜は「ごめんなさい」と泣きじゃくるばかりである。
「担当医から左ひじの内側を真一文字に切った写真を見せてもらって、これは大変なことだと思ったし、傷跡が残ることも考えられたね」
研音の社長として対応に追われた花見は、あまりの傷の深さに愕然となった。切れた血管や神経をつなぐために、実に6時間もの大手術が必要であった。
慈恵医大病院の前で行われた会見では「責任はわれわれにある」と言うのが精一杯だった。なぜならば花見は、いや、研音の誰1人として明菜に会うことを許されていない。
その「面会謝絶」が解除されたのは、事件から1カ月が過ぎてのことである。
「自分たちの力量が足りず、ファンに対しても申し訳がない。この件からは、つまりは明菜のマネジメントからは撤退するべきだろうという結論になった」
花見が明菜にそのことを伝え、明菜自身も研音を離れるつもりでいたため、泥仕合になることなく「独立」への準備が進められた。
この年の大みそか、紅白歌合戦と同時刻に抜き打ちの会見が始まった。明菜と、友人という形で近藤が出席。会見場には金屏風が用意されていたものの、ひたすら謝罪に徹する明菜には似合わない“背景”であった。
花見ら研音スタッフは、この会見にかかわることはなかった。すべてはジャニーズ側の仕切りであり、明菜サイドには数人のワーナースタッフがついたくらいである。
花見は以来、明菜とは1度も顔を合わせていない。花見自身も10年前に研音を勇退し、芸能界とは距離を置いた場所にいる。それでも──、
「明菜のオールタイム・ベストが出て、そこに新曲も入っているのなら、それはうれしいことだね。明菜のおかげで研音はビルが建ったし、感謝こそすれ、恨む気持ちはまったくないよ」
明菜が輝いていた80年代は、あの大みそかの会見と共に幕を閉じた──。