「戦国武将の逸話には、創作である軍記物の記述に引きずられ、それが定説となってしまうことが多い」
──そう語るのは戦国武将・明智光秀の子孫で、先頃「織田信長 四三三年目の真実 信長脳を歴史捜査せよ!」(幻冬舎)を上梓した明智憲三郎氏。実は光秀の主君・織田信長にまつわる定説は、間違いだらけなのだという。独自に解明した信長の「真の姿」を明かしてもらった。
信長といえば16~18歳の頃に奇行が目立ったことから、「大うつけ(大バカ者の意)」と呼ばれていた。この「うつけ」、実は演技だったとされるが、明智氏はその理由もこれまでの定説とはズレていると指摘する。
「うつけを演じたのは、弟に注がれた母の愛情を取り戻したかったからなどと言われていますが、そんな甘い時代ではない。本当の理由は暗殺防止なんです」
そのことに明智氏が気づいたのは、くしくも信長が抹香を仏前に投げつける奇行を見せた、父・信秀の葬儀で読まれた弔辞の一節だ。
「孫呉兵術に慣るるのみにあらず、況(いわん)や良平の謀諮を挫(くじ)くをや」
「孫呉」は「孫子」「呉子」なる兵法書を残した孫武と呉起であり、「良平」とは漢の劉邦に仕えた名軍師、張良と陳平を指す。つまり中国の故事を例えに用い、信秀をほめたたえているのだ。
「中国には唐の太宗や宣宗など、有能な人物が後継者争いで暗殺されるのを防ぐため、わざと『うつけ』を装い、のちに実権を握った例がいくつもある。当時の尾張は織田一族同士で戦い合う状況でいつ暗殺されてもおかしくない。信秀はいちばん優れた息子の信長にうつけを演じさせたのです」
この視点でこれまでの信長の定説を捉え直すと、新事実が見えてくるという。
4万5000とも言われる大軍を率いた今川義元をわずか10分の1の兵力で破った「桶狭間の戦い」。信長が義元の本陣を奇襲し、偶然と幸運が重なって勝てたとするのが定説だが──。
「信長は確実に勝つため、綿密に作戦を立てていた。実は『呉子』には『千の力で万の敵を撃つ最善の策は狭い谷間で戦うこと』という兵法が書かれてあります。道幅が狭いと大軍でも横に広がれず、攻撃の範囲が狭まる。だから桶狭間に義元をおびき寄せた。また、『先頭と後尾が分断された敵は攻めやすい』『敵が進みやすく退却しにくい地形にいる時に誘い出せ』とも書かれてある。信長はそれに従い、後陣が桶狭間にいるうちに自分の砦を餌としてあえて攻め落とさせ、前陣を砦のある平地に引き出すことで軍を2つに分断し、兵力を半減させた」
さらには、「追い風の時に大声を出して攻め込め」という兵法も実行。
「敵は恐怖を感じて混乱するそうです。桶狭間は伊勢湾の近くで、しかも夏だから海風は強い。海の温度が高まり海風が吹くお昼から突撃を始めた。決戦は通常朝イチで始まるものなので、結果的に奇襲となった。信長は地形や気候、時間をも巧みに利用したのです」
成功率を上げるため「作戦は士卒に知らせるな」という孫子の教えどおり、家臣にもあらかじめ教えない徹底ぶりだったという。
信長で連想しやすいのは比叡山焼き討ちなど数多くの残虐行為。これも本人の性格に起因するように思えるが、明智氏は否定する。
「信長は戦争に関しては孫呉の兵法を用いたが、政治には『韓非子』の論理を使ったと思われます。韓非は春秋戦国時代の諸子百家の一人で、孔子や孟子などの儒教的精神とは対極の存在。秦の始皇帝が心酔し、彼を重用しました。簡単に言うと、覇王として勝ち残る方法が書かれてあるのです」
信長は家臣の荒木村重が謀反を起こした際、その一族郎党、妻や側室、幼子さえも全員処刑した。
「『韓非子』によれば、とにかく厳罰を与えることが大事。他の家臣が恐れて同じこと(謀反)を起こさないようにすることが目的の『予防刑』という考えです。例えば比叡山に関しても、浅井長政・朝倉義景に加担したら焼き討ちすると、比叡山側に事前に通告していた。その約束はホゴにされましたが、ここで見逃せば予防刑にならない。絶対に処分しないといけません。決して個人的感情や残虐な性格だからなのではなく、統治するためのすべなのです」
こうした状況下、信長は「本能寺の変」で自刃することに。だが明智氏によると、本能寺では別人が殺される予定だったという。
「実は、信長は徳川家康を本能寺で殺そうとしていた。家康を呼び寄せて光秀に討たせ、家康の領地・三河を制圧するはずでした」
事実、信長は「本能寺の変」当日、重臣30人を従えた家康を呼びつけている。ここで重臣ごと一気に討てば、指揮系統を失った三河の強力部隊も手に入る。それは同時に、光秀にとっても信長を討つ千載一遇のチャンスとなった。
なぜ光秀は謀反を起こしたのか。「信長に恨みがあった」「天下を取りたかった」などの説があるが、明智氏は別の動機を説明する。
「自分の一族が信長に滅ぼされると悟ったからでしょう。『韓非子』に『ずるい兎が全て狩られれば猟犬が煮て食べられる。同じように敵国が滅びれば謀臣が殺される』という一節があります。戦国武将にとって、一族が続くことは天下を取ることと同じ比重で重要でした。当時は主君の死後、その一族は有力な家臣に滅ぼされるのが常だった。そのため、有力武将は遠国へ移封されるか滅ぼされる。信長はイエズス会の宣教師に、中国の明を征服する予定だと述べています。この計画によって信長は、自分の一族を滅ぼしかねない有力武将を中国へ送り込むことができる。すなわち高齢の光秀に代わって、息子たちが中国へ行くことになる。恐らくもう帰ってこられず、光秀一族は中国で滅亡することになる。光秀はそう悟り、謀反を起こしたというのが最も妥当です」
みずからの一族による天下統一が続くように、中国進出をもくろんだ信長は、同じく一族を守ろうとした家臣によって殺される結果となったのだ。