一方、97年、春と夏の甲子園に出場。当時、4番でエースの「ビッグマウス」は京都の名門、平安高校のドクターKと呼ばれた。
「完全試合を達成します」
報道陣を前にこう言い放った川口知哉氏(35)は、140キロ台の直球と落差あるカーブで三振の山を築いた左腕で、大会NO1投手との呼び声も高かった。ドラフト会議では4球団による1位指名競合の末、オリックスに入団。だが、甲子園での名声はプロでは鳴りを潜めた。
不運だったのは、コーチによる投球フォームの変更。一度も満足できる投球ができないまま、04年オフに戦力外通告されてしまう。
その川口氏がメディアの前に再び登場するのは09年。日本女子プロ野球リーグ(JWBL)に所属する「京都アストドリームス」(現・京都フローラ)の投手コーチに就任してからだ。オリックスを退団してから6年が経過していた。
川口氏が告白する。
「女子なんでパワーは確かに男子よりも劣りますが、レベルの高さに最初は驚かされました。平安の2年生レベルぐらいの高さです」
女子プロ野球創立当初は2チームだったが、今は4チームに増えた。4年目には川口氏が監督に就任。
「4チームに戦力を均等に分けるため、JWBLはいったん選手をバラバラに振り分けた。マイナス面で言えば今までのファンが離れましたが、あくまで女子プロ野球の底上げを図るため。将来への布石としての措置でした」
女子野球部を設ける高校は当時、5校足らず。大半がソフトボール部を採用し、高校に上がると野球からソフトに転身するのが慣習化されていた。それが女子プロリーグが設立されると、女子野球部は20校以上にまで増えた。
「(4チームのうちの)東北レイアは次世代を育てるためのチーム。いわゆる育成チームで、高卒3年目の選手が多数を占めています。今は全チーム女性監督となって、僕は(京都の監督を退任して)全チームを統括するバッテリーヘッドコーチという立場になった。東北レイアを見ていることが多いんですが、男子コーチがいないチームに出向いてノックを打つこともあります。女子だと外野ノックで強い打球を打てないから」
時には女性監督やコーチにもアドバイスを送る。
「試合になると女子プロのサイトに速報バナーが貼られるんですが、その速報も僕の担当です。試合を観ながらパソコンで入力する作業を各地でやります。選手の細かな動作を観る余裕がないほど、入力に追われてますよ(笑)」
言動からは、充実した第2の人生が伝わってきた。
女子プロ野球には、埼玉アストライアのコーチに転身した辻内崇伸氏(27)もいる。同チームを運営する企業「わかさ生活」でサラリーマンをしながら、野球に携わる日々なのだ。
辻内氏は大阪桐蔭のエースとして甲子園を沸かせ、マックス156キロを誇った左腕。05年に鳴り物入りで巨人に入団した。
だが、ルーキーイヤーのキャンプで、肩痛を発症。この故障から引退に至る13年まで、辻内氏はケガと戦い続けた。通算8年間で一軍登板はなし。引退後に「埼玉アストライア」のコーチに就任すると、ようやく当時の苦悩を、テレビ番組などを通して明かすようになった。
辻内氏によれば、プロ入り当初の期待が大きかった分、公私を問わずにファンから心ないヤジが聞こえてきたという。気晴らしに食事に出かければ、
「久しぶりに見るな。遊んでいる暇があれば練習すればいいんじゃないですか」
とイヤミを言われる。
ネットでも誹謗中傷ばかり。ケガとの闘いは見向きもされていなかった。
同じ女子プロ野球の世界という「同業者」である先の川口氏は、辻内氏から相談を受けたりもしたという。川口氏は言う。
「辻内は苦悩しています。といっても女子野球の指導法についてですが、今は元気に頑張っていますよ。男女の考え方が基本的に違いますし、女性はよく思われたいとどこかで感じている。対等に扱うのが大前提で、男のプロ野球選手のように一匹狼のようなタイプはほぼいません。辻内もその違いに戸惑っていましたが、今は2年目。徐々に慣れ始めていますよ」