ベッキーのスキャンダル、SMAP解散など、衝撃の芸能ニュースが相次いでいる。それでも、今から38年前に起きた「田宮二郎」の事件こそは、戦後の芸能史において特筆すべき出来事ではなかったか‥‥。夫の死から沈黙を続けた未亡人が初めて語る「最期の真実」が今、ここに最終章を迎える──。
〈富士山の光が目の前一杯に拡がってゆきます。生まれて初めて、胸が躍った僕の心を幸子は察してくれたのだろう。いくつかの難問をのり越えて、2人は神前に夫婦の絆を誓い合った。今も僕は倖せ一杯だ〉
78年12月28日、自宅寝室で猟銃を引き抜き、43歳の生涯を終えた田宮二郎の遺書の書き出しである。この時点で主演の財前五郎を演じた「白い巨塔」(フジテレビ)の放映を2話残しており、劇中の「手術不能のガン死」とシンクロする自らの死は、年の瀬の日本列島を震撼させた。
主役没後にドラマを放映できるのかどうか議論になったが、フジは「ご冥福をお祈りします」のテロップを入れることで乗り切り、最終回は31.4%もの高視聴率を記録。豪華俳優陣や重厚な脚本も加わり、今なお日本のドラマ史における金字塔とされる。
それでも、と元女優・藤由紀子こと幸子夫人(73)は言う。
「最後に『白い巨塔』をやっていなければ、田宮はあのような形で死ぬことはなかったと思います。ボクシングに例えるなら、とっくにタオルを投げ入れているのに、それでも12ラウンドを戦い切った。そして今でも名作として観ていただけているのであれば、遺族としては大きな慰めになります」
タオルを投げ入れたのは、心身ともにすり減らした田宮に対してだけではない。幸子夫人もまた、豹変した田宮との生活に打ちのめされていた。
異変が始まったのは死の2年前、76年頃のこと。これまで家族に声を荒げることのなかった田宮が、ささいなことで激高するようになった。さらに、田宮家に得体の知れない者たちが出入りする。田宮に「M資金」を吹き込む者や、「トンガのウラン採掘権」などをささやく者──、
「まともな状態であれば、田宮もそうした話に乗ることはなかったと思う。精神が壊れていく過程にあって、ありもしない詐欺話にのめり込んでいったんです」
田宮は大映・永田雅一社長との衝突から映画界を干された時期があった。テレビドラマにも出演することが許されず、司会者や歌の営業をすることで糊口をしのいだ。妻と、2人の幼い息子に「貧乏」という思いだけはさせたくない‥‥。そんな責任感が田宮を休む間もない仕事に追い立て、そして、崩壊に至ってゆく。
「大映にいた頃も、結核が再発して、ペニシリン注射を打ちながら撮影を続けたこともありました」
幸子夫人は「田宮企画」の代表として、長期休業を決断。それでも、夫人のあずかり知らぬところで「白い巨塔」が動き出し、休むことがかなわなくなった。
田宮も休養の必要性は感じながら、それができなかったと遺書に綴っている。
〈僕は結婚以来、がむしゃらに働いた。経済的に誰にも不安を与えたくなかったから。本当は素朴なあたたかい生き方もある筈なのに、それを知りながら、働くことしか生き甲斐を知らない人間になって行った〉
気づくのが、遅かったのだ‥‥。