手探り状態で始まった番組の黎明期を語り継ぐのは、「アンコーさん」の愛称で知られる齋藤安弘(77)。67年10月、あのジングルが街に鳴り響いた日のこと。
ニッポン放送は深夜番組に対して他局よりも遅れていて、系列の別会社が担当していたんです。ところが、聴取率もスポンサー収入もよろしくない。それならば自社に一本化して、局のアナウンサーでやってみようと始まったのが「オールナイトニッポン」でした。
私は局に入って3年目の若手でしたが、先輩たちに交じって火曜日の4時間を任された。ディレクターからは「好きなようにやれ」と言われていたので、自分でレコードを探して、本番中も自分で回すスタイルにしました。
番組が始まった67年はグループサウンズが大ブームで、ビートルズなど洋楽も人気で、さらにフォークソングが台頭してきた。それを象徴したミリオンセラーがザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」ですね。
もともと関西では人気があったけど、関東ではまだなじみがない。しかも、ウチより2カ月早く始まったTBSの「パックインミュージック」は日産自動車の1社提供で、酔っ払って車にハネられて死ぬ歌はかけられない(笑)。逆にこっちは、今で言うパワープレイで1日に何回もかけて曲を浸透させましたね。
実は開始当時は全国ネットでなく、関東ローカル。さほど人気も出ないだろうと思っていたら、あっという間にハガキが殺到するようになった。
番組が始まる時に厳しく言われたのは、聴取者の年齢を下げないということ。深夜の長い時間を聴かせることは、教育上も健康上もよくないということでした。そのため、下ネタも厳禁だったのですが、なぜか先輩の高崎一郎さんは「違うほうの下ネタはいいだろう」と、トイレ方面の話ばかりしていましたね。
そうそう、オープニングテーマでおなじみの「ビタースウィート・サンバ」(ハーブ・アルパート&ティファナ・ブラス)ですが、実は同じアルバムの別の曲に決まっていた。それを高崎さんが間違ってかけてしまったけど、こっちのほうがいいじゃないかと。
まあ、高崎さんのリップサービスじゃないかなど諸説あるので、真相はわかりませんが(笑)。
さて関東ローカルと言っても、夜中のラジオはけっこう遠くまで電波が飛ぶ。鹿児島あたりからもハガキが来て、感心した記憶があります。
それと、ソニーがトランジスタラジオを開発してくれたことも大きかった。真夜中の工事現場で働いている人など、ラジオにイヤホンつけて聴いてくれるなどして、どんどんリスナーが増え、さらにはネット局も拡大していったんです。
そしてリスナーの数は300万人と言われるようになった。そのため、実は私に自民党から参院選に出ないかというオファーもあったほど。
「300万票は無理でも、絶対に当選する」
丁重にお断りしましたが、番組の影響力を感じましたね。初代のパーソナリティ6人は、それぞれに流す音楽も違っていたけど、それが個性となって番組の礎を築けたんじゃないかと自負しております。