銀幕やテレビのきらびやかな大スター。その裏方にも、やはり軍師は存在した。石原裕次郎、勝新太郎‥‥キラ星を支えたその敏腕とは? 芸能評論家の肥留間正明氏が語る。
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昭和の大スターといえば、裕ちゃんこと石原裕次郎(享年52)だ。彼が率いた石原軍団、その元専務取締役・小林正彦氏は文字どおり、裕次郎の片腕と言える存在だった。
「小林さん、業界では“コマサ”の愛称で呼ばれていますが、大スターを支える軍師でもあり、プロデューサーでもあり、実務能力抜群の事務方でもあった。石原プロの作品は協賛を50社くらい募るのですが、一つ一つそれを取って回った。これは営業力が優れていたということ。それともう一つ、彼の大方針として、ボス(裕次郎)の貫目をいかに光り輝かせるか、それがある。だから業界内部で絶妙な気配りはしますが、決して媚びは売らないし、いざとなったら一歩も引かない。そしてナンバー2に徹した。だからこそケンカもできたのです」
そんな小林氏は、ある時こんなことを肥留間氏に語ったという。彼の得意分野であったメディア対策についてである。
「人間っていうのは、腹が減ると腹が立ってくるもんだ」
石原軍団といえば、大がかりな炊き出しや餅つき大会を開催するので有名だが、その際、取材陣も入れて文字どおり同じ釜のメシを食うのだ。むろん、個々の範囲でより懇意なつきあいもあったという。
「テレビ時代の芸能界において、メディアとのつきあいに重きを置いた先駆者。実にバランス感覚がすばらしかった」
また、裕次郎の病状が悪化した時のこと。告知すべきという兄・慎太郎氏の意見に真っ向から反対し、最後まで知らせるべきじゃない、という方針を貫いたのも小林氏だった。その理由はこうだ。
「なぜ、渡さんと違って告知しなかったのかという僕の質問に対して彼はこう答えた。『(渡は)助かることがわかっている。でも、(裕次郎は)死ぬのがわかっていた。それなら裕ちゃんには、最後まで“石原裕次郎”でいてもらいたい、好きに生きてほしい』と」
つまりは、利害を越えた強烈な裕次郎愛があってこそである。