オヤジが映画を撮るのは、次が恐らく最後になるだろう‥‥。
健太の胸にそんな思いが去来する。締めくくりの作品は、できればヤクザ映画を撮ってほしい。それでも深作は違った。
「もう1回、名もない若者たちと『バトル・ロワイアル』をやりたい」
すでに原作本の設定は1作目で使い果たしたため健太は難色を示したが、深作は譲らなかった。前作が公開された当時、少年による西鉄バスジャック事件が起きたり、民主党・石井紘基衆議院議員が映画の規制を求めた。そんな事案にも、むしろ深作には「世の中を巻き込んだ」という思いのほうが強かった。
配給の東映とも話し合い、続編の「バトル・ロワイアルⅡ 鎮レクイエム魂歌」(03年公開)の制作が決定したが、ここで別の事態も勃発する。
「02年の夏に母方の祖母が亡くなって、その葬儀のあたりからオヤジが挙動不審になっている。どうしたんだと聞くと『本が出るんだよ』と言うんです」
深作と不倫関係にあった荻野目慶子の告白本だという。健太は愛人スキャンダルはどうでもいいと思った。もともと蜷川幸雄の舞台で観た荻野目に感動し「天才だ」と父親に教えたのは健太である。そのことから深作の作品にも荻野目が出るようになり、健太と3人で食事したことも何度かある。
問題は、深作の「ガン再発」を記述していることにあった。健太は出版社に乗り込み、社長にゲラを見せてくれと伝えた。
「お前、いい度胸だな」
その口ぶりに、どうやら深作のガン記述が削除されそうもない。
「映画のクランクイン前に、向こうからすっぱ抜かれるという形は避けたかった。だったら、こちらが制作発表の場で先に明かそうということになりました」
02年9月25日、会見の場で深作は「前立腺ガンが骨ガンとして脊椎に転移」と告白。さらに、こんな決意の書を配布した。
〈たとえこの闘いで生涯を終えようとも、わたしには一片の悔いもない〉
深作欣二という映画監督が見せた悲壮な覚悟に、報道陣もどよめきを隠せなかった。この会見から1カ月後、前作で激しい舌戦を繰り広げた石井紘基が右翼活動家に刺されて死亡するというニュースも重なった。
撮影開始は12月16日であったが、健太は病状の進行に驚いた。
「クランクアップまでは持つだろうと思っていたら、モルヒネ投与のためか、コンテ割りもままならない。結局、冒頭の1シーンしかオヤジは撮れなかった」
すでに7億円もの予算が動いており、東映との協議で健太が監督を代行することになった。奇しくも父親と同じく「30歳での監督デビュー」であった。
「最後に話したのは12月19日。オヤジに手を握られて『つらい闘いになるぞ』と言われたのが最期の言葉でした」
2日後に入院した深作は翌年1月12日に亡くなり、監督を引き継いだ健太は、主人公の七原秋也にビン・ラディンを投影させて映画を完成させた。
健太にとって人生が激変するほどの喧騒から10年、今、あらためて「監督・深作欣二」をどう思うのだろうか─。
「芸術肌ではなく、B級の作品が多かったかもしれないけど、大好きな監督と1つの作品を共有できたことは誇りに思います」
〈文中敬称略、次回は西郷輝彦〉