漫画家の多くは、デビュー前に他の漫画家のアシスタントをしていた過去を持つ。「つるピカハゲ丸」で80年代に「つるセコブーム」を巻き起こした、のむらしんぼ氏も、そんな一人である。
大学時代に読んだ青年漫画に感銘を受けて、漫画家を志し、大学の「漫研」に所属したのむら氏が、企業イベントの似顔絵描きアルバイトをしている最中だった。
「30歳前後のヒゲ面の兄ちゃんが近寄ってきて、突然『漫研の人?』と。名前を聞くと『弘兼』と言うので、当時は有名ではありませんでしたが、まさかあのストーリー構成がすごい、弘兼さん!? とすぐにピンときました。著作を読んでいることを伝えると、『5時に終わるのね。じゃあ迎えに来るから』と」
それが「島耕作」でおなじみの、師匠・弘兼憲史氏との出会いだった。
「そのまま先生のマンションに行くと、コタツを買うのをつきあわされて(笑)。そのお礼に手料理をふるまってくれました」
それからすぐに、のむら氏の“弟子生活”が始まった。
「本当に居心地のいい場所でした。当時のアシスタントは、僕、のちの奥さんとなる柴門ふみ、他1名だけ。いつも先生が御飯を作ってくれて、皆でテレビを見ながら食卓を囲んで。特に味噌汁がうまかった(笑)。とにかく家庭的で待遇もよく、『間に合うから寝ていいよ、オレも寝る』と言っていたのに、先生1人起きて描いていたこともありました。あれにはジーンと来ました」
ところが、アシスタント業で技術的なことは一切教わらなかったという。「その分、他では学べない編集者とのつきあい方や、漫画家としての社会生活の送り方など『漫画家とは何なのか』を学びました。話すことといえば、映画やドラマ、小説の話。例えば一緒にドラマを見る時も、先生はストーリー構成やカメラワークを意識して、全ての作品を監督の目で見ているんです」
初めて触れる感性に感銘を受けたのむら氏は、さらに驚いたことがあった。
「『オレは漫画家でダメになっても、やりたいことがいっぱいあるから困らないんだ』と、先生がそう言ってデスクのいちばん大きい引き出しを開けると、400字詰めの原稿用紙に書いたシナリオがギッシリ詰まっていました。この人は漫画家以前に作家なのだな、と。どうりでストーリーがずば抜けておもしろいはずです」
アシスタント生活は半年間だったが、卒業してから数十年たった4年ほど前、のむら氏は思うように仕事ができず、苦しんでいた。
「そんな時期、とある雑誌の編集長が弘兼先生にこんなことを言われたと。『しんぼのこと、よろしくお願いします』と‥‥」
本物の師弟に過ごした時間は関係ない──。弘兼氏とのむら氏の関係が、師弟の神髄を物語っている。