文太のわずか18日前にこの世を去った高倉健(享年83)は任侠映画全盛時代、常に文太の「前を走っていた」スターだった。しかし演じたのは同じ極道でも、健さんがもっぱら任侠精神の権化のような「美しき」役柄だったのに対し、文字通り「仁義なき」極道役が多かった文太。俳優として先輩に追いつき追い越そうとするハングリーさとダブって見えるが、健さんとの「本当の仲」に、知られざるエピソードで迫る。
昭和8年(1933年)8月16日、仙台で生まれた菅原文太は高倉健より2歳下、ともに遅咲きの大スターには違いないが(文太のほうはさらに遅い)、2人の軌跡はだいぶ違っている。
文太は早稲田大学中退後、ファッションモデルを経て、昭和33年(1958年)、「白線秘密地帯」で新東宝からデビューした。ちなみに菅原文太は本名。モデル時代は“ファンファン”こと岡田真澄と一緒で、ファッションショーで彼が舞台に登場すると女の子たちから「キャアー」と黄色い声が挙がるのに、
「次は菅原文太」
と紹介されると、一斉に失笑が起きた──と、文太は後年コボしている。
新東宝時代は吉田輝雄、寺島達夫、高宮敬二とともに“ハンサム・タワー”(文太は身長180センチの健さんより少し低い176センチ)で売り出したが、あまりパッとせず、昭和41年、新東宝の倒産によって松竹に転じた。「血と掟」「男の顔は履歴書」などの出演で知りあった安藤昇の紹介で、東映に移籍したのは昭和42年秋のことである。もっぱら松竹で撮っていた安藤昇が、“任侠映画のドン”俊藤浩滋プロデューサーにスカウトされ、東映で初めて「懲役十八年」(昭和42年2月、加藤泰監督)を京都撮影所で撮るとき、安藤から、
「おう、文ちゃん、遊んでるんなら一緒に京都に行かないか」
と誘われ、気軽についていったのが始まりだった。
京都で安藤のマンションに居候し、撮影所にもくっついていくうちに、俊藤が文太に目を留め、
「クスブっているんなら、うちに来るか」
と声をかけられ、
「ぜひお願いします」
という話になったのだった。
文太の記念すべき東映初出演は、高倉健の御存知「網走番外地」シリーズ10本目の同「吹雪の斗争」(昭和42年12月、石井輝男監督)であった。
文太も「網走番外地」シリーズは好きで、よく観ており、つねづね、
「ああ、オレもこんな映画をやりたいなあ」
と思っていた。その「網走番外地」が東映初出演であったから、文太にすれば、感慨も新たなものがあったろう。とはいえ、文太の役は網走刑務所で健さんを目の仇にする同房の牢名主の手下役で、ポスターに名前も出ないチョイ役だった。
すでに高倉健は「網走番外地」シリーズばかりか、「日本侠客伝」「昭和残侠伝」という大人気シリーズの主役を張って、鶴田浩二と並ぶ東映任侠映画路線の二枚看板、大スターの座を不動のものにしていた。
いまだ鳴かず飛ばず、くすぶっている文太からすれば、仰ぎ見るような存在である。
2人は東映東京撮影所で初めて顔を合わせた。高倉健は誰に対しても腰が低かった。関係者から文太を紹介された健さんは、文太に対しても、
「高倉です。よろしくお願いします」
ときちんと腰を折り頭を下げた。これには文太もびっくりし、
「こりゃ、他のスターさんとは全然違う」
としみじみ感じいってしまったという。
だが、ここまで差が開いたところから健さんの高みにまで駆け昇っていくのだから、文太も凄かった。
◆作家・山平重樹