文太と健さんとの本格的な共演は、実質的には「山口組三代目」(昭和48年8月、山下耕作監督)、「大脱獄」(昭和50年4月、石井輝男監督)、「神戸国際ギャング」(昭和50年10月、田中登監督)の3本。いずれも「仁義なき戦い」以降の作品で、文太が押しも押されもせぬ大スターとして世間的にも認知された後のことだった。3作ともに高倉健の主演で、文太が準主役をつとめ、ガップリよつに組んでの熱演を見せた。
東映サイドも、文太を任侠路線に代わる実録路線のエースと位置づけ、健さんとの新たな二枚看板として売り出す予定だったのだろう。東映が満を持して放つ2大スター競演の超大作との触れこみで、ポスターやタイトルバックも、かつての片岡千恵蔵と市川右太衛門、鶴田と高倉のような扱いになっていた。
とりわけ文太の場合、「神戸国際ギャング」のときには、その2カ月前に封切られた主演作品「トラック野郎」が大ヒット、新境地を開拓し、ますますスターとしてハクを付けていた。
「神戸国際ギャング」に出演、自分の息子に「健太」と名付けるほど健さんと文太兄ィのファンで、憧れの2人と初めて共演したボクシングの元世界チャンピオンのガッツ石松は、撮影中の文太兄ィが健さんに対し、一歩も二歩も下がって立てている感がありありと見受けられた──と証言している。
また、撮影中の事故で、健さんがケガを負ってしまったときのこと。それでも監督やスタッフが、健さんの絡まない別の撮影を続けようとしたところ、文太が憤然と、
「健さんがケガしたのに、撮影なんかできるわけないだろう!」
と撮影をやめさせたという話も、ガッツは伝えている。
ちなみに、この「神戸国際ギャング」が封切られたとき、新宿東映で行なわれた高倉健、菅原文太、真木洋子、ガッツ石松、田中登監督らによる舞台挨拶を、筆者も見ている。
このとき、司会者が健さんに、
「菅原文太という俳優をどう見てますか」
と問うたのに、健さんは、
「東映を背負って立つようなすばらしい俳優さんになられましたね」
といった内容のことを言葉少なに語ったのを、はっきり記憶している。
文太はそれを健さんから離れた場所(壇上でとなりあわせに並んだのではなかった)で、照れくさそうに聞いていたのが印象的だった。
文太の挨拶は、映画館に押し寄せたファンに、
「『トラック野郎』のときはありがとうございました」
云々と、本作のことよりもっぱら自作の「トラック野郎」に触れ、健さんとは違って結構饒舌に話していたのが印象深く、
「対照的な二人だなあ」
との思いを強く持ったものだった。
どちらかというと健さん同様、寡黙な男として知られる文太。思うに、このときの文太は図らずも高倉健に対するライバル意識というか、気負いのようなものが出てしまったのではないかという気がしてならない。
実際、文太が健さんに対して強烈なライバル意識を持っていたと見る映画関係者は少なくない。筆者も後年、文太にインタビューしたとき、役者として鶴田、高倉とは違う方向で──ということは意識されたのか、との問いに、文太から、
「同じことをやってもかなわないとなれば、誰でもそう考えて努力するのではないのかな」
と返ってきたものだった。
文太と健さんの共演は、「神戸国際ギャング」が最後となり、その後は俳優としてそれぞれまったく別の道を歩んでいく。日本の銀幕を代表する大スターとして2人の長い間の活躍は知られる通りである。
文太が健さんに対し何より強いライバル意識を持っていた証しは、健さんが東映を離れた後に、松竹で撮って大ヒットさせた山田洋次監督の「幸福の黄色いハンカチ」のリメーク版を、文太がテレビのドラマで撮っていることであろう。
「幸福の黄色いハンカチ」といえば、任侠ものから脱皮を図ってみごとにイメチェンに成功した健さんの代表作。健さんのイメージができあがっている役にチャレンジするという大それたことを、いったい他のどの役者にできるだろうか。そこには文太の、
「健さん何するものぞ」
との気概があったのは紛れもなかろう。
◆作家・山平重樹