「羽柴誠三秀吉」なる名で東京都知事選や大阪府知事選など全国の選挙に出馬し続けた、三上誠三さんが肝硬変で逝去した。享年65歳、名物泡沫候補の生き様とは──。
中卒で裸一貫、運送業で財をなし、建設業や観光業に事業を広げ、往時の資産は200億円とも言われた実業家だった。若い頃、近所の住職に「羽柴秀吉の生まれ変わり」と言われたことから羽柴秀吉を自称するようになったという。自宅を城にし、国会議事堂を模したホテルまで建てた。そんな誠三さんのライフワークは選挙出馬。そのつど、1枚5000円する金箔を食べたりするなど、金満パフォーマンスでも話題を振りまいたものだ。
76年、地元・青森県金木町(現五所川原市)町長選をはじめとして11年の夕張市長選まで、立候補した選挙は計17回にも及ぶ。
誠三さんが社長だった東北興産建設株式会社で取締役を務めている次男で元タレントの三上大和さんが話す。
「選挙に出るのは家族に一切相談なしでした。周りが慌ただしくなって、選挙カーとかが用意されて初めて『出馬するんだ』とわかった。通算の出馬回数とか数えたこともないです。逆に記者の方に『17回』と教えられたぐらいですからね(笑)」
約4年前から入退院を繰り返していた。それでも誠三さんは政界への意欲を持ち続けていたという。
「父にとって選挙は旅に出る感覚だったと思います。正直、政策は付け焼き刃でしたが、最期まで議員になりたがっていた。『もう1回出たい』と。とにかく権力が欲しかったんでしょうね(笑)」(大和さん)
鎧兜を身にまとうなど、パフォーマンス先行だった選挙戦。その公約はあまり知られていない。誠三さんの選挙戦を取材し、「核弾頭迫撃パトリオットミサイル」が装備されて要塞と化した青森の自宅も訪れた大川興業総裁・大川豊氏が明かす。
「公約は出馬した都市によって違うんだけど、いちばんおもしろかったのは、俺が最初に秀吉さんに会った99年の東京都知事選。その時の公約は高尾山のふもとに100万人規模の特別養護老人ホームと、200万人規模のデイサービス施設を造って、東京を世界一の福祉都市にすると言ってたよ。これはまったく取り上げられてないんじゃないかな。今、問題になっている特養に入れない大勢の待機老人を予見してたわけだよね。それと、結果的に出馬はしなかった2000年の長野県知事選では、田中康夫の『脱ダム宣言』を非難し、ダム建設を推進しておいしい水を売るって言ってたよ。そういうビジネス的なアイデアが豊富な人でした」
07年には財政破綻した夕張市長選に出馬。この時の公約は、大企業を夕張に誘致、閉鎖された市営温泉施設「ゆうばりユーパロの湯」に私財を投じて再開するという、経営者的センスあふれるものだった(ちなみに当選していても、公務員なので私財投入はできなかった)。結果は、342票差の次点だった。
「夕張市長選の時に『政治家にならなくても政治はできる。市長よりも自称・市長になれば愛されるはず』と秀吉さんに伝えたよ。そうすれば、自然発生的に担がれて立候補の話も出たと思う。政治とビジネスが違うのは、その地域に住んでいる人たちの心を動かさないといけないということだからね。橋下市長の大阪都構想があっただけに、もうひと暴れしてほしかった。仮に大阪府知事になれたとして、大阪城を府庁にしてくれとお願いしたんだよ。秀吉さんは『やる!』と言ってた。今の日本の閉塞感では、もうこういう人は出てこないだろうね。惜しい人を亡くしたよ」(大川氏)
「天下布武」はならなかったが、ビジネスでも成功し、明るく楽しい選挙を17回も戦った誠三さん。くしくも亡くなったのは、統一地方選挙投票日の前日。三上氏は期日前投票を済ませていたという。合掌。