カウボーイハットにブルロープで会場狭しと暴れ回り一世を風靡した、“不沈艦”スタン・ハンセン。ウエスタン・ラリアットを武器に、猪木、馬場はもとより、天龍源一郎、三沢光晴とも死闘を繰り広げてきたのもいまだ記憶に新しい。そんなハンセンが三沢のメモリアルツアー参加のために緊急来日。そこで週刊アサヒ芸能がインタビューを敢行。現役時代から私生活まで全てを明かした。
── 今回は2009年6月13日に亡くなった三沢光晴さんのメモリアルツアーへの来日ですね。
ハンセン 三沢が亡くなったことはいまだに信じられない。三沢のことは若い頃から知っているが、状況の変化によって短期間でトップにならなければいけなかった。普通の人間だったら責任感、プレッシャーに潰されてしまったかもしれないが、彼はみごとにやり遂げたよ。
── 三沢さんは何度も叩きつけられながら、92年6月、ついにハンセンさんを倒して三冠王者になりました。
ハンセン 私は三沢にトップのポジションを譲るつもりはなかったから、彼を本気で叩きつけた。本当にトップに立ちたいなら、実力で上がってこいというのが私のスタンスだった。そして彼は何度も立ち上がり、しだいに私を越えるようになった。彼は実力と諦めない心で真のトップに立った。
── 三沢さんが設立したプロレスリング・ノアには初めての参加ですが、全日本プロレスで闘った懐かしい選手もいたでしょう。
ハンセン 私が主戦場にした全日本から分かれた団体だが、知っているメンバーは少なくなってしまったね。社長の田上(明)とは闘ったし、タッグも組んだ。副社長の丸藤(正道)はデビューしたばかりの新人だったな。あと、知っているのはヤングボーイだった小川(良成)ぐらいだよ。
── それこそ田上社長は新人時代、ハンセンさんのことが怖くて、いつもシリーズ中に対戦する試合数を数えていました(笑)
ハンセン (日本語で)ゴメンナサイ(笑)。でも田上は若い頃から強かったよ。
── 振り返ると、ハンセンさんの初来日は40年前の75年9月でした。当時の日本の印象はいかがでしたか?
ハンセン 当時はまだアメリカ本土からの直行便の飛行機がなくて、ホノルル経由で羽田空港に到着したんだ。羽田から銀座のホテルに向かうバスから見た景色は、映画で見たゴジラが破壊する街並みと同じで、すごくおもしろかった(笑)。当時の私は26歳の若さで、日本が初めての外国だったから、レフェリーのジョー樋口さんにお世話になった。ジョーさんはすばらしい人物だった。このことは絶対に書いておいてほしい。
── 今でこそ、日本食を何でも食べるハンセンさんですが、その当時は大丈夫だったんですか?
ハンセン 日本食を食べるようになったのは、82年に新日本から全日本に移籍してブルーザー・ブロディと一緒になってからだね。ブロディはハワイ出身で日本通のキング・イヤウケアというレスラーから日本食のおいしい店をたくさん教わっていて、そこに私を連れていってくれた。それで、私も日本食が好きになったんだ。刺身を克服するのには時間がかかったけど、今は毎朝、納豆を食べているよ。