78年12月28日、トップスターだった田宮二郎(享年43)は、生涯の代表作の撮影直後に、猟銃で命を絶つ。昭和の芸能史に残る衝撃ニュースを、公私のそれぞれで最も近くにいた2人の男が分析する。
「僕の友人の精神科医がドラマを見ていて、彼の異変に気がついた。僕に『ちゃんと薬を飲むように言ったほうがいいよ』と伝えてきたんだ」
語るのは名優・山本學である。日本のドラマ史の金字塔と呼ばれる「白い巨塔」(78~79年、フジテレビ系)で、主人公・財前五郎のライバル医師である里見脩二を演じた。
この撮影当時、すでに財前役の田宮は躁うつ病だった。また「M資金」など、怪しげな投資にのめり込んでいたことも発覚する。
田宮とはこれが初共演だったが、驚かされることが多かったと山本は言う。
「僕も田宮さんも病院の見学には行っていたんですよ。ある日、田宮さんが『ガクさんは盲腸って残っている?』と聞く。僕があると答えると、『盲腸の手術ならできるから、僕が切るよ』と真顔で言うんだ」
同ドラマは、医師としての野望に燃える財前と、良心を貫く里見との対比を軸に描いた。やがて山本の名演が光った里見役に、視聴者の評価も高まってゆく。田宮は原作者の山崎豊子氏に電話をかけては、不満をぶつけた。
「俺がこんなに懸命なのに、どうして里見のほうが評判がいいんだ!」
そう山崎から聞かされた山本だが、そんなことはない、と思ったそうだ。
「財前と里見は、ひとつの人間を善と悪のふたつに割った存在。だから善を演じた僕の人気は上がるけど、田宮さんこそ役者冥利に尽きるような熱演だった」
医師でありながらガンに侵され、親友の里見に「キミが正しかった」と詫びながら手を握る。山本は、あまりの力の強さに腕がしびれる思いがした。田宮は遺体となって運ばれてゆく場面も、代役を立てずにみずからシーツの下に入った。
田宮の没後に「追悼」とテロップを入れてオンエアされた最終回は、31.4%もの高視聴率を記録した。
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田宮の長男・柴田光太郎は、まだ中学1年生だった。父の晩年は、弟が中学受験を控えていたため母親と2人で青山に別居し、麻布の自宅には光太郎が田宮と一緒に住んでいた。
その弟・田宮五郎は昨年、47歳の若さで急死した。柴田はその若すぎる死を前に、父はそれよりさらに若くして亡くなったのかと感慨を新たにした。そして父と過ごした最後の日々を思い出す。
「父の精神的な病気のこともあったし、僕が長男として見なきゃいけないという使命を感じていました」
撮影で遅くなる田宮のために、光太郎は夜10時半になると、父の部屋にある風呂を沸かした。ただ、撮影はいつも長引き、光太郎は先に眠ってしまう。
当時の風呂に追いだき機能はなく、すっかり冷めてしまっただろうが、それでも毎朝、「お風呂を入れてくれてありがとう」のメモが残されていた。
田宮が命を絶った日、光太郎は新潟へスキー合宿に出かけていた。訃報を聞いて、「ようやく夫婦の仲も戻ろうとしていたのに、早すぎる」と落胆した。
田宮は死に際し、妻や弁護士、先輩の奈良岡朋子らに宛てた8通の遺書を残している。達筆で、文面もしっかりした内容だった。ただし光太郎は、公表されたものとは別の「遺書」があったと明かす。
「日記のように、一冊の本になっていました。精神状態によっては、まるで殴り書きのように字が乱れていた。死の直前に書いたものもそうでした」
田宮夫人の母(田宮の義母)はこの時期、麻布で一緒に住んでいたが、持病が再発して入院することになった。もちろんそれは、田宮に何ら責はない。しかし、
〈お母さんが本日入院しました。なお僕も死を選びます。何を語っても僕の生きる方法はないと思います。許して下さい〉
これが、未公開の殴り書き遺書の文面である。
光太郎は「ほんのささいなこと」が死に結び付いたことを悔やむ。
「それでも、父の死後に多くの作品がリメイクされた。僕の中ではずっと父親ですから、亡くなってからも例を見ないほど評価されているのは、ありがたいことだと思います」
衝撃的な死に方ではあったが、父として息子に確かな絆を残している。