気がつけば、姿を見なくなっていた。あれほどの人気と出演本数を誇りながら、最後の10年は女優として活動しなかった。長く愛された大原麗子(享年62)に、いったいどんな心身の変化があったのか──。「親友」が回想激白する。
「もう七回忌ですか? あまりにもいろんなことがあったから、そんなにたったとは思わなかった‥‥」
女優・鹿沼絵里は、ありし日の大原の写真を見ながらため息をつく。
鹿沼は日活映画の名作に出演し、共演を機に俳優・古尾谷雅人と結婚。それが大原と親しくなったきっかけでもあった。
「麗子さん主演の『さりげなく憎いやつ』(82年、TBS系)で共演したんです。実は私、よく声や雰囲気が似ているって言われていたの。それもあって親しくなったら、麗子さんに『彼氏はいるの?』って聞かれて、古尾谷の名前を出したんです」
とたんに大原は、注目している俳優が古尾谷だと、驚きの声を上げた。古尾谷と鹿沼の挙式では、森進一と夫婦(当時)で媒酌人も引き受けてくれた。
鹿沼は結婚と同時に仕事をセーブしたが、大原との家族ぐるみのつきあいは続いた。やがて、大原からマネージャーをやってくれないかと頼まれるようになる。
「2人の子育てに加えて、古尾谷という手のかかるダンナがいるわけですよ。とてもじゃないけど、麗子さんのことまで手が回らないとお断りしました」
古尾谷は03年3月25日、自宅で首つり自殺を図る。長らく躁うつ病に苦しみ、また仕事を選びすぎたあまり借金苦となり、鹿沼に対してもDVが絶えなかった。鹿沼は夫の死に、どこか大原との共通点を見た。
「古尾谷は5歳の時に父親が再婚し、継母からは愛情を得られず、父親からもストレス解消のため虐待を受けていました。麗子さんも父親の虐待で絶縁にまで至っていますが、そのせいで2人は似た部分があったと思います。自分のイメージを大事にするあまり、仲よくなるとぶつかってくる性格は同じでした」
古尾谷と同居する鹿沼はそれでも、ギリギリまで夫のグチを聞いてやれる環境にあった。ところが1人で過ごす大原は、そのはけ口を失っていた。
鹿沼は出産後に大原を自宅に招いた日のことが忘れられないという。
「私が出前のお寿司を取ろうとしたら、麗子さんが『お寿司はいつでも食べられるから家庭料理が食べたい』って言うの。もちろんそうしてあげたいけど、私は小さい子を2人も抱えていたから、『えぇーっ!』と思ったわ。でも麗子さんはスーパーにも行きたいって言うので、一緒に買い物をすることになって」
寄せ鍋の食材を買っていると、大原は「ハムの切り落とし」がどうしても食べたいと言いだす。父親と離れて貧しい暮らしをしていた少女時代、それが唯一のごちそうだったのだ。
やがて大原が芸能活動をセーブすると、さらに鹿沼に依存してきた。真夜中だろうとかまわず電話をかけてきては、一方的に自分のグチを聞かせる。
「古尾谷のことでも生き地獄なのに、まして子育ては1分でも寝られる時に寝ていたい‥‥そう告げたら、麗子さんは『あっそ!』と電話をガチャンと切ってしまいました」
大原の葬儀の場で、浅丘ルリ子は同じように「一方的な長電話」に苦しめられたと弔辞で述べた。後見人だった森光子も、大原の晩年には縁を切っている。
唯一、手を差し伸べたのが大原の初婚の相手で、最後まで最愛の男だった渡瀬恒彦だ。渡瀬は自身の主演ドラマ「十津川警部シリーズ」(04年、TBS系)に大原をゲスト出演させている。結果的に、これが大原の遺作となってしまった。だがそこに美人女優の面影はなかったと鹿沼は言う。
「その前にも目の奥二重を整形したことで顔が変形し、決まっていた映画を降ろされたこともありました。亡くなる3カ月前に電話があって『会いたいね』と言ったら、ポツンと『今の麗子は会わないほうがいいかもしれない』と言いました」
また、3億円の豪邸に1人で住んでいたが「お金は使えばなくなるの」とも漏らしている。
鹿沼は、最後に食事した日のことを鮮明に覚えている。ギランバレー症候群の再発だと口にしていたが、それ以上に自律神経に支障を来しているように見えた。
「スプーンがうまく握れず、テーブルに水たまりができるほど泣きっぱなしなんです。女優の“涙のスイッチ”とは違う号泣ぶりでした」
そして大原は09年8月3日、不整脈による脳内出血で死去。発見は3日後の8月6日であり、携帯電話まで3メートルと近づいたところでコト切れていた。