元横綱・千代の富士(享年61)が7月31日に膵臓ガンで急逝した。小さな体で巨漢力士をなぎ倒し、歴代2位となる1045もの勝ち星をつかんだ「大横綱」。彼を知る誰もが、その早すぎる死を悼んだ。
「千代の富士は若い頃、体の小さいわりに相撲が大きすぎた。負けん気が強くて、投げにこだわるあまり、肩の脱臼を繰り返しました。ところが、右おっつけ、左前みつの正攻法の取り口に変えて、横綱への道を切り開いたのです」
こう語るのは相撲ジャーナリストの杉山邦博氏だ。力士として大成するには、肉体改造が必要だった。
「四日市中央病院に入院した時の話です。千代の富士はリハビリとして、右肩が抜けないように筋肉で固めることを院長から勧められた。それからなんと、1日500回の腕立て伏せを己に課して、黙々と実行したんです」(スポーツ紙記者)
その結果、二の腕から肩にかけ、みごとな筋肉で盛り上がった和製ヘラクレスの体形が完成するのである。81年に26歳にして横綱昇進を果たし、30代には53連勝を記録するなど全盛期を迎える。
相撲ジャーナリストの中沢潔氏が言う。
「当時、相撲界には大乃国、双羽黒、北勝海ら人気力士がいたが、これといった敵がおらず、着々と優勝を重ねました。結果的には大鵬の持つ32回には届かなかったが、31回の記録を残した。地元の北海道には鈴木宗男という実力派の衆議院議員がおり、その尽力もあって国民栄誉賞を受賞。大鵬は記録で及ばなかった千代の富士が、自分を差し置いて最大の栄誉を手にしたことに立腹していたとも言われています」
引退後は親方として元大関・千代大海ら多くの関取を育てた。それでも相撲協会の理事長になるどころか、14年には理事選では落選の憂き目を見た。
「歯に衣着せぬ物言いや、傲慢不遜に見られる性格が災いした」(関係者)
だが、師匠で解説者の北の富士はその訃報に触れ、
「口は悪いが、腹はそれほど悪くなかった」
とコメントした。元担当記者がエピソードを明かす。
「九重部屋の近くにあるスナックに、よく呼び出されました。新人の記者にはよく『儀式だから』と、アイスペール(氷入れ)に酒をなみなみと注いで一気飲みさせていました。しかし、記者が潰れると、部屋から若い力士を呼んで介抱させるんです。かくいう私も、目覚めたら九重部屋の客間だったということが、何度もありました。豪快な反面、気遣いができる人でした」
また、現役時代に巡業で定宿にしていた旅館の元従業員はこう話す。
「翌日に巡業を控えているにもかかわらず、逆鉾関ら気の合う力士と朝まで趣味の麻雀をしていました。当時すでに親方になっていた大鵬さんはその輪には加わらず、『アイツは絶対に勝つまでやめないからな』と早々に自室に引き揚げていったのを覚えています」
土俵の外でも“勝負の鬼”だった。合掌──。