「ミサイルや核よりも、もっと大切な拉致という大きな問題がある」──。曽我ひとみさんは9月13日の会見でこう語った。金正恩の“暴挙”の陰にひっそりと追いやられつつある、北朝鮮による日本人拉致問題。事件発生から40年がたち、「消えた868人」にまつわる新証言をつかんだ。
9月某日、記者は東京都下の住宅街を歩いていた。目指すのは、77年9月19日に起きた拉致事件の「実行犯」の居宅である。
事件から40年。決して風化させてはいけない。そんな思いを胸に、「犯人」追跡を試みるのだった──。
まずは事件を振り返りたい。石川県宇出津(うしつ)町(現・能登町)から北朝鮮へと連れ去られた被害者は、東京都三鷹市に在住していた当時52歳の警備員・久米裕さん。久米さんはのちに、日本政府から北朝鮮拉致被害者の「第1号」に認定されることになる。この「宇出津事件」について社会部記者が語る。
「実行犯のAは、主犯格の北朝鮮工作員に指示され、『うまい儲け話がある』と知り合いの久米さんを石川県に誘い出したのです。Aは犯行後すぐ、警察の事情聴取を受けて、『久米は北朝鮮行きに同意していた』と拉致への関与を認めるかのような証言をしているにもかかわらず、事件としては立件されなかったのです」
その後もAは日本で生活を続けた。6年前には、拉致問題を追及する団体が、Aを拉致の実行犯として刑事告発したが、逮捕を伝えるニュースはない。
たどりついたAの住所には、真新しい一軒家が建っていた。表札の名字はAのものではなく、呼び鈴を押しても応答はない。周辺で聞き込みをしても、Aを知る人物は見つからなかった。
はたしてAの口から、真相と謝罪の弁が語られる日は訪れるのだろうか。
この久米さんを含め、拉致された日本人たちは、当時は単なる失踪者として扱われていた。「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」(通称「家族会」)代表で、78年に拉致された田口八重子さん(当時22歳)の兄である飯塚繁雄氏が述懐する。
「私自身、拉致というものが行われていることはまったく知らなかった。妹が失踪し、置き去りにされた子供を育てることに手いっぱいで、突き止めようにも、その後の足取りがまったくわからない。そんな状況が10年ぐらい続いたんです」
80年1月には産経新聞が、福井県の地村保志さん、濱本富貴惠さんらが失踪した複数の事案を初めて関連づけ、
〈アベック3組ナゾの蒸発外国情報機関が関与?〉
と一面で報じたが、事件の“黒幕”が浮上するのは88年3月のことだった。
「一連のアベック行方不明事犯、恐らくは北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚でございます」
当時の国家公安委員長の梶山静六氏が国会でこう発言し、時の政府が北朝鮮の関与を初めて認めたのだ。飯塚氏が事の真相にたどりついたのも、この頃だという。
「87年に逮捕された北朝鮮の工作員・金賢姫の証言から、『田口八重子は北朝鮮に拉致された女性である』ことが特定されました。当初は『そんなことはないだろう。信じられない』と思っていたけれども、事実関係を整理すると認めざるをえない。そんな状況でした」