82年には、その三波が突如病死する。小遊三とのケンカ腰の掛け合いで人気を博した、桂才賀(65)は80年から88年の大喜利メンバー。九代目桂文治の門を叩いた時に、「入門したければ自衛隊に3年入隊しなさい」と言われ、海上自衛隊から噺家に。異色の出自を持つ才賀は、
「三波さんには、とにかくかわいがってもらった」
と言いながら、三波の思い出を語る。
「私は当時から今まで、少年院や刑務所の慰問を続けているんですが、『笑点』に出ているなら、と受け入れてくれるケースがすごく多い。刑務所にまで影響するくらいすごい人気、ってことですね。三波さんは私が慰問やってることを知っててくれたんで、“ムショ帰りの噺家”っていうキャラクターを考えてくれたんです。これがまあウケたウケた(笑)」
番組には、三波の言葉を真に受けた視聴者から、
「何でムショ帰りなんかテレビに出すんだ!」
というクレームも入るほどだったという。その絶大な影響力で、俳優として抜擢されたこともあった。
「私は夏目雅子さん主演の映画『鬼龍院花子の生涯』(82年)に出させていただいたんですが、それも『笑点』のおかげなんですよ。番組を観た五社英雄監督が、オーディションなしで私を抜擢してくださったんです!」(前出・才賀)
三波急逝の翌年から五代目三遊亭圓楽があとを引き継ぐ。初期からの大喜利メンバーだった圓楽は、
「本業の落語を磨きたい」
という理由で77年に番組を降板したが、圓楽司会就任以降、番組は長く続く黄金期を迎えることとなった。小遊三が笑いながら振り返る。
「圓楽師匠の復帰と僕が大喜利メンバーに加入したのは同じ年なんです。圓楽師匠はああいう大ざっぱな師匠だから、僕が手を上げても『ええと、木久ちゃん!』なんつって指されるのもしょっちゅうでした」
師匠のこん平が04年に病に倒れ、座布団に座ることになったたい平。だが、出演当初なかなか圓楽が指してくれなかった。
「何か失礼なことをしたでしょうか? って聞きに行ったんです。そしたら『本番になるとキミの名前がわかんなくなっちゃうんだよね』って。『オレンジのヤツがチラチラ手をあげてるけど、誰だったかなぁ』って思うそうなんです(笑)」(たい平)
収録は土曜日。毎週、終わると後楽園の近くの蕎麦店「葵」で打ち上げを行っていたという。前出の小遊三が懐かしむ。
「こん平師匠と当時のプロデューサーが酒好きでね。毎回朝まで。次の日に落語の会が入ってるとかそういうのは関係ない(笑)。今はそんなこと絶対できないけど、まだ若かったからね。当時はバブルの真っ最中で、ハワイやら香港やらに番組で連れて行ってもらってました。とにかくやたらめったらおもしろかった。ふわふわーっとした楽しい思い出をみんなと共有した、っていう記憶がありますね。僕の青春ですよ」
打ち上げでも飲まなかったのが、ともに司会となった圓楽と歌丸だった。
「あの2人が飲んでた日にゃあ、番組潰れてたんじゃないかね。酒飲みより、酒飲まないほうが噺家は出世するね(笑)」(前出・小遊三)
新司会候補と言われる円楽は飲むそうだが、はたして‥‥。