週刊アサヒ芸能は5月19日号「笑点の焦点」で、新メンバーに30人もの噺家が候補になっていることを書いた。どう選ばれたのかを考えれば、新出演者の正体もわかるのではないか──小遊三が明かす。
「いやあ、ビックリしましたよ。番組との接点も、前ぶれもまったく何もなかったんですから。お呼びがかかってプロデューサーのところに行ったら、説明も何もなく『これからレギュラーでやるから』って。『よろしくお願いします』って言ったら、それから3、4カ月、全然うんともすんとも言ってこなくて。ドッキリカメラかと思いましたね」
80年には三遊亭小圓遊が病死する。プロデューサーに「つなぎだから、とりあえず座ってろ」と言われ、8年間も出演した才賀はこう笑う。
「急にだったので、若手大喜利で小圓遊師匠と組んでいた僕が抜擢されたらしいんですが‥‥その日は師匠の一件も知らなくてゴルフをしていたんですよ。ホールのスピーカーから、『電話がかかってる』って放送が流れてきまして。プロデューサーが僕に『お前が大喜利メンバー昇格だ』って言うんです。師匠死亡の報から2時間後に電話してきたそうです」
たい平も若手大喜利からの昇格組。こん平の病気休演により、急きょ若手大喜利優勝者が、代役で出られることになった。
「弟子の僕が師匠の座布団を死守する」
というたい平の意気込みも当初は空回り。出す答えが全てすべってしまう。そのピンチを救ったのは、若手大喜利の司会だった現メンバー・春風亭昇太(56)だった。
「あとから聞いたら『困ったよ、お前一つもおもしろいこと言わねえからよ』と、すごく焦ったそうです。弟子の僕が代役をするのがいちばん自然だと思ってくれていたけど、すべるから座布団をあげられない。そこで『そうだ! 他のヤツの座布団を取り上げればいいんだ!』って気がついたそうで(笑)」(前出・たい平)
昇太の“大岡裁き”により優勝して、2年後には昇太とともに正式メンバーとなったたい平。10年たった今、去りゆく歌丸に贈る惜別の言葉とは──。
「楽屋でつらそうになさってる時も、高座の袖にシュッと立ったら、さっきまでとは別人の師匠がそこにいらっしゃるんです。座布団に座るとそこから1時間、よどみなく、滑舌もよくおしゃべりしてお客さんを笑わせて。師匠は落語に関しては、ご自分にすごく厳しくて、そこが本当にかっこいい。きっちりした人情話もすごく滑稽な話も得意で、さらに『笑点』があって‥‥」
歌丸を間近で見た12年間は、本当に勉強になったという。
「師匠たちが積み重ねてきた50年があって、『笑点』は日本の日曜日の夕方になくてはならない故郷のような原風景になりました。僕たちは新しいことを取り入れながらも、それを守っていきたいと思います。長生きしていただいて、100歳の歌丸師匠がやる落語を僕たちに見せてほしいと思います」(前出・たい平)
50年がたち、一つのサゲを迎えた「笑点」。だが、新たな出囃子はもう鳴っているようである。