デビューから7作連続でシングルがベストテン入りするなど、70年代アイドルでは“特A級”の存在だった麻丘めぐみ(59)。レコード売り上げだけでなく、ビジュアルを含めた全てが鮮烈な輝きを放っていた。
沖縄返還や田中角栄内閣誕生に沸いた72年6月、デビュー曲の「芽ばえ」が発売され、たちまち40万枚の大ヒットを記録。世の激動と、自身のデビューはどう結び付いたのか?
「自分の人生が大きく変わった運命の年。もともと私の姉が歌手で、スターになる日を夢みていたんです。その世界に私も入っていって、戸惑いと不安ばかり抱えていました」
同期には郷ひろみ、西城秀樹、森昌子ら強力なライバルがひしめく。同年のレコード大賞は熾烈なデッドヒートの末、ちあきなおみの「喝采」が制したが、最優秀新人賞もまた、激戦を勝ち抜いて麻丘の頭上に輝いた。
「正直に言うと‥‥最優秀新人賞は申し訳ない気持ちでいっぱいでした。私は子役から始まり、いつかいい役者になることが夢だったので、歌手になってあとに引けない現実をなかなか受け止めることができず、よく泣いていました」
大みそかの授賞式でも、感激どころではなくパニック状態に近い大泣きの姿が見られた。今、あらためて栄光の瞬間をプレイバックしてもらいたい。
「会場は帝国劇場だったんですが、地下4階からセリが上がっていくんです。実は私、すごく高所恐怖症で、賞どころではなかった。ガタガタ震えながら『早く終わって』とつぶやいていたくらいです。受賞して司会の森光子さんに『うれしいわよね』ってマイクを向けられても、なぜか『わかんな~い!』って答えたくらいですから」
3歳から少女モデルをやっていただけあって、どの時代にデビューしても通用する透明感があった。特に垂れ髪を短く切った「お姫さまカット」は、自身のトレードマークとなる。
「モデル時代はヘアメイクもスタイリストもいませんから、全て自前だったんです。髪形のバリエーションをつけやすいようにと、あのカットにしました」
翌73年には「わたしの彼は左きき」が50万枚を超える最大ヒット。チャート1位を獲得した事実よりも、男たちの「左ききコンプレックス」を払拭したことが大きかった。
「ヒット記念パーティには、王貞治選手(当時)に来ていただいて驚きました。私は『面識もないのに、すいませ~ん』って、感激しながらも謝っていました」
どのアイドルもそうだが、70年代は歌、ドラマ、バラエティ、雑誌とフル稼働するため、現在とは忙しさが桁違い。そんな日々をどう過ごしたのか?
「当時は歌番組が毎日あり、週末は地方のコンサートに行き、とにかく忙しかったので、当時の記憶がないんです。自分の思いとは違う展開になっていくのが、10代の私にはすごく怖かった。歌手活動は激動の5年間でした」
77年に結婚のため一時引退。デビューから親しかった南沙織、浅田美代子も、ほぼ同時期に同じ形で一線を退いている。親友たちとの絆は今も変わらず、ずっと支えてもらっていると感謝する。
「激動の5年間があったから、復帰後の今もお仕事させていただいてます。来年も舞台が控えており、還暦を迎えるので新たな挑戦をしたいですね。09年に33年ぶりに発足したファンクラブの皆さんとも、楽しい時間を作りたいです」
会話のそこかしこに、デビュー時と変わらぬ青嵐が吹いている。