その透き通ったハーモニーで、70年代のフォークブームにあって屈指の名曲とされた。シモンズが歌った「恋人もいないのに」(71年)だ。今も1人で歌い続けている田中ゆみ(62)が、青春の季節を語った。
やはり歌い出しの「♪こォいィびとも~いなァいのに~」のフレーズが印象的だったんでしょうね。あの高音のハーモニーにインパクトがあって、いろんな人に受け入れていただいたんだと思います。
私とパートナーの玉井タエは、高校時代に友達のつながりで知り合いました。2人で組んで歌うようになって、先にデビューしていたベッツィ&クリスの「白い色は恋人の色」が大ヒットしていて、私たちもああいうハーモニーが目標でカバーしていました。
私たちは地元が大阪だったので、MBSの「ヤングタウン」のオーディションで合格したんです。そして高校卒業後に上京し、デビューが決まりました。
あの「恋人もいないのに」は西岡たかしさん(五つの赤い風船)が作曲してくださいましたが、実はもう1つの候補があったんです。それは加藤和彦&北山修さんの「あの素晴らしい愛をもう一度」でした。私たちのデビュー曲候補で依頼されていましたが、あまりにも出来がいいのでご本人たちで歌われたそうです。もちろん「恋人もいないのに」は名曲ですが、もし「あの素晴らしい愛をもう一度」でデビューしていたら、歴史が変わっていたかもしれませんね。
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シモンズがデビューした71年は、フォークブームが吹き荒れる前兆の年だった。吉田拓郎、井上陽水、かぐや姫らが“大爆発”の機会をうかがっていた。
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私たちのライブの前座を務めていただいたのが井上陽水さん。その頃からすばらしい声で、楽曲もいいし、図抜けた存在でしたね。それでいて気さくな方でしたので、楽屋でよくお話ししましたよ。
当時は大勢のアーティストが一堂に会するタイプのコンサートが主流でしたが、かぐや姫ともよく一緒になりました。南こうせつさんは私たちの「ひとつぶの涙」という4枚目のシングルが大好きで、ホールの階段で「歌って、歌って」とせがまれることも多かったですね。
私たちのデビュー曲が大ヒットして、その年のレコ大の新人賞にも選ばれました。小柳ルミ子さんや南沙織さん、欧陽菲菲さんと同じ壇上に並び、まさかという思いで立っていました。
シモンズはタエちゃんの結婚を機に74年に解散しました。その後、私はソロを中心に歌い続けてきました。16年はデビュー45周年を迎えますので、さらにライブの機会を増やしたいですね。
私生活では6年前に再婚し、お互いが同じ境遇なので合わせたら孫が7人もいるんです。
もう1つ、実は56歳の時に縁あって女優デビューを飾ったんですよ。土曜ワイド劇場に出たり、黒木瞳さんの舞台にも出させていただきました。私にとって女優は第2の夢でしたので、とても充実しています。