サーカスが歌う「Mr.サマータイム」に乗せて、外国人モデルにも見劣りしない服部まこ(55)=現在は真湖=がデビューしたのは、78年のことである。
──プロポーションもルックスも、てっきりハーフの人だと思っていました。
服部 それは今でも言われます。タクシーに乗っていて「日本語うまいですね」って(笑)。いえいえ私、日本橋は人形町生まれの純国産なんですけど、デビュー当時は何となく、それを言わない戦略がありましたね。
──カネボウ夏のキャンペーンガールに選ばれたのは16歳。感激でした?
服部 前の年に事務所に言われて2回くらいメーカーの面接を受けたんですけど、何の音沙汰もなかったんです。それでクリスマスにヨーロッパを旅行していたら「決まったよ!」というので、飛んで帰って来ました。
──前年の77年は夏目雅子の「クッキーフェイス」が大ヒット。それに続けての抜擢ですが。
服部 私、あまりテレビも見ないので、そうしたことも知らなかったんです。それからフィジーやニューカレドニアにCMやポスターの撮影に1カ月半ほど行きまして。
──長期ロケですねえ。
服部 CMだけで6本から8本くらいのバージョンを撮りますから。毎日、違う水着を着ていた感じでしたね。あ、そうそう、電通の担当として同行されたのが伊集院静さんで、雅子さんの話も少ししてくれましたよ。
──強い日差しの下での長期の撮影は大変ですか。
服部 私は太陽に好かれやすいのか、日傘とYシャツでガードしても真っ黒に焼けていましたね。撮影が終わってCMのオンエアが始まると、次は全国のキャンペーンです。ここには雅子さんもご一緒することがあって、彼女が長女、私が次女という形でした。
──当時、話題となったのが、カネボウのCMを始めてすぐに一軒家を購入したことでしたね。
服部 モデルの仕事は15歳からやっていますが、基本的に給料ではなく、1本いくらの形なんです。最初は月に3万円とかそのくらいでしたけど、やはり、カネボウをやってからは他の仕事も増えましたし。
──それにしても17歳で即決するとはすごい。
服部 それまで下町の小さなアパートに住んでいて、たまたま新聞広告に、広尾のほうの建売住宅が出ていたんです。計算したら、ローンの額は大丈夫そうだなと。もし払えなくなったら、売ってまた6畳一間に戻ればいいやって。
──大人の男でもなかなかできない思い切りです。さて、その後はレポーターとしてもおなじみでした。
服部 芳村真理さんに声をかけていただいて「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ系)のニューヨークからの中継レポーターもやりましたね。カネボウのあと、映画やドラマにもたくさん出させていただきましたけど、やはり「自分の言葉」でしゃべりたいという気持ちが強かったんだと思います。
──さて現在は、多くの国を旅した経験を生かし、国際文化交流にも尽力されていらっしゃいます。
服部 外務省から依頼されて、アラブの国で日本舞踊を披露することもあるんですよ。それと生まれたばかりの孫が、ようやくしゃべり始めたのも今の楽しみ!