吉展ちゃん誘拐、ライフル魔・金嬉老、コンクリート詰め殺人…警察の捜査をあざ笑うような、いままでの常識が通用しない、日本の事件史に残る凄惨な殺人事件が次々に起こった1960年代。これは行き過ぎた高度経済成長のゆがみから生じた亀裂を象徴していた。
台東区入谷町に住む建築業者の長男・村越吉展ちゃん(4歳)が63年3月31日、夕方、行方不明になった。翌々日、身代金50万円を要求する電話が入る。4月7日、母親が犯人の要求どおり軽三輪車の上に現金入りの封筒を置いたが、犯人は身代金を受け取ったものの、吉展ちゃんは戻ってこなかった。
有力な手がかりは脅迫電話の録音テープだったが、文化放送社員が、よく似た声の男を見つけインタビューし、警察は事情聴取、事件から2年過ぎの65年7月4日、時計修理工・小原保(32)を営利誘拐、恐喝容疑で逮捕した。
翌5日、小原の自供をもとに円通寺(荒川区南千住)の墓地から吉展ちゃんの遺体が発見された。
悲報が伝えられたその日、円通寺には都内各地から焼香客が押し寄せ、記者は吉展ちゃんの両親から話を聞いたが、母親の豊子さんは「なんでもいいから生きていてほしかった…」と机の上に泣き伏してしまった。
アサヒ芸能1965年7月18日号では、記者が福島県石川郡の小原の実家に飛び、関係者を直撃取材した。昼間からヤケ酒をあおっていた実兄は語る。
〈「保がやったこたあ、とても普通の道徳ではできないことだ。まともな人間にできるこっちゃねぇ」〉
昼間から雨戸を締め切り、酒を飲む姿には、どうしようもない苦しさがうかがわれた。
また母親は、小原が自供する直前「世間をお騒がして本当に申し訳ねえ」と、畳の上に両手をついて記者に語っている。
〈「わしは、決してあの子がやったのではねえと思ってるんス。昔からおとなしい子だったし、そんな大それたことができるような野郎じゃねえスよ。……むしろ親思いの子でして、いつだったかも私に千円も送ってくれたんです。……わしはもう板ばさみになって、心配で心配で……」
母は泣き崩れるばかりだった〉
事件は被害者、加害者家族のその後の人生にも暗い影を落とした。