人気キャスターだった小林麻央が34歳の若さで急逝した。昨年6月に進行性の乳ガンであることを告白し闘病を続けていたが、5月になって顎にまで転移していたと診断され退院。自宅で療養生活を送っていたやさきだった。そこにはブログにも綴られなかった、濃密な25日間に及ぶ「最期の日々」があったのだ。
「麻央さんは、6月22日の夕方に容体が急変。当時、稽古で外出していた海老蔵さんが、麻央さんの母親のLINEで気づいたのが、夕方頃。すぐに、自宅に帰った海老蔵さんの前で、最期に『愛してる』との言葉を残して旅立ちました。時間は、午後8時過ぎだと聞いています」
そう“最期の瞬間”を切々と振り返るのは、梨園にも詳しいベテランの芸能ジャーナリスト。
才色兼備のキャスターとして、そして16年の9月以降は「乳ガン闘病記」のブログを発表していた小林麻央さんの急逝は、驚きをもって迎えられた。
麻央さんの死の直後、自宅前には、深夜0時頃から報道陣が集結。早朝には40人ほどまでに膨れ上がっていた。
「深夜には、海老蔵さんの実母である希実子さんが引き揚げ、自宅マンションは、人の出入りもなく静かでした。息を引き取った瞬間には、海老蔵さんと希実子さん、長女の麗禾ちゃん(5)と勸玄君(4)のほか、姉の麻耶(37)に、麻央さんのご両親もそろって見届けたそうです」(取材した芸能記者)
5月29日に退院後、麻央さんが「最期の25日間」を過ごした都内のマンションは、今年になって海老蔵と家族が、“終の棲家”に選んだ場所だった。
「今年1月に麻央さんが出演した番組で、昨年6月の時点で余命が『夏までの3カ月』と告げられていたことを明らかにしていたほどで、容体は予断を許さなかった。ところが、ブログを始めた昨年9月から徐々に病状が安定し、年を越すのが難しいと見られていた病状も小康状態を保っていたんです。そこで、麻央さんのたっての希望もあり、海老蔵さんが自宅での緩和ケアを決意。バリアフリーを意識した間取りで、車椅子が通ることのできる幅の廊下や酸素吸入器など医療設備を搬入できる大きさのベッドルームのあるマンションを選んだんです。しかも麻央さんの母親が泊まれるようなゲストルームも用意して、受け入れ態勢は万全でした」(前出・芸能ジャーナリスト)
さらに、自宅療養を後押ししたのは、今年春、麻央さんを襲った体調の変化だった。
「一時危篤状態になった麻央さんは、病院で看取られるよりも自宅で過ごしたいと希望するようになったといいます。夫の海老蔵さんにしても父親の市川團十郎さんが病院で亡くなっているので、『妻の希望をかなえてほしい』ということで退院に至ったのです。本来なら、ガンの転移による痛みがかなりあったようなので、病院にいたほうが、緩和ケアとして有効だったようですが、QOL(クオリティオブライフ)を優先した形で退院したそうです」(医療関係者)
退院後は、とりわけ仕事で不在がちの海老蔵に代わって、自宅での身の回りの世話をしていたのが母親だった。梨園関係者が語る。
「母親のAさんは、麻央さんの食事の世話はもちろん、2人の子供の幼稚園の送り迎えも行っていました。麻央さんが自宅療養に切り替えてからは、幼稚園の帰りには近所の神社を参拝する様子も目撃されています。他にも麻央さんの酸素吸入器や緩和ケアの薬剤のコントロールも、医療関係者が不在の時間帯は任されていて、文字どおり24時間態勢で麻央さんに付きっきりだった」
そしてAさんは、日々の病状を逐一、海老蔵に報告してもいたほか、
「昨年5月に姉の麻耶が生放送中に療養疲れで倒れるという騒動がありました。それ以降は、あまり姉の麻耶さんにも負担をかけないように麻央さんのそばに常にいました。特に昨年の秋以降、麻央さんのガンが肺や骨に転移したと発表したあたりからは、夫とも一時的に別居して、麻央さんの自宅近くにマンションを借りて暮らしていたほど。Aさんの存在があったからこそ、海老蔵さんは歌舞伎役者の仕事に邁進できたのです」(前出・梨園関係者)