71年(昭和46年)7月、53歳で通商産業大臣に就いた田中角栄の秘書官として、小長啓一は仕えることになった。
田中は、目白の田中邸で毎朝7時から9時頃までの2時間、1組3分、毎日40組、次々と訪問客たちの陳情を受ける。
小長が〈なるほどなァ‥‥〉と感心することもあった。中には、部屋に呼んで説明を聞く前に、田中が先に言い放ってしまう。
「君、あの話は今回ダメだよ」
選挙区から来た相手の顔を見た瞬間、即座に追い払うのだ。小長は驚くしかなかった。
〈大臣は選挙区をそこまで把握しているのか。これは、とても真似できない〉
陳情の場合、担当の秘書がいるため、小長はその場に同席していないが、陳情担当の秘書の動きを見ていれば、田中が瞬時に一つひとつの陳情を裁いていることがわかる。陳情内容に合った各省庁へつないでやり、通産省管轄の陳情であれば、すぐに秘書から小長に話が伝えられた。
田中は、頭の回転がよく、ポイントを素早くつかみ、次々と指示や助言を与えるのであろう。その様は、まるで腕利きで評判のいい医者の往診のようであった。
できることは「わかった」と言う。「わかった」というのは、陳情を理解したということではなく、その陳情を引き受けた、対応可能である、という意味である。
田中派の参議院議員には、ほとんどの省庁の官僚を引き入れていた。田中派が「総合病院」と呼ばれたのは、そのせいである。
彼らの中で誰の力を使えばできるかを瞬時に判断し、「わかった」と伝える。ただし、すぐに引き受けられない時は「1週間待て」と間を置いた。
逆にできないことは、はっきり「できない」と言う。物事を曖味にし、いつまでも結論をズルズルと引っ張り、相手を生殺しにするような真似はしない。
そして、その陳情を秘書に2日か3日で手際よく処理させて、連絡させる。この田中のすばやい対応に、陳情客の感激も倍加する。
〈やっぱり、田中先生はすごいんだ〉
初めての客と会うのも、やはりわずか5分だ。その客が2度目にやって来る時には、田中は事前にその客自身、あるいは家族、親戚などの近況を秘書に調べさせておく。そうして、相手が再び訪問してきた際に、
「よう○○君、元気かい」
というように、相手の名前をはっきりと言って声をかける。
相手は、まさか大臣が1度しか会っていない自分の名前など覚えているはずはないだろうと思っている。それだけに、自分の名前を呼ばれたということに、無上の喜びを感じる。
「君んとこの息子さん、○○さんとこの娘と結婚したそうじゃないか。いや、よかった、よかった‥‥」
こうして、相手は完全に田中に惚れ込んでしまう。
田中は1週間の内3日、それぞれ1晩で3つの宴席を掛け持ちしていた。開始時間が、午後6時・7時・8時の3席である。場所は、赤坂、新橋、築地などの料亭で、ひとつの宴席を1時間弱で切り上げる。
宴席を設けた側は、主賓の田中を屏風の前の真ん中の席に座らせる。小長は、そこから少し離れた末席に座る。田中が一言挨拶を述べてから乾杯になる。その儀式が終わった瞬間、田中のスイッチが入る。
席に用意された食事には一口も手をつけず、宴席の場に集まった10人前後の人たち一人ひとりのところへ自らが出向いて行く。そして、時間が許す限りお酒をつぎ、つがれたりしながら話をして回る。酒も入り、リラックスしたムードで場は和む。田中は、彼らから生の情報をしっかりとつかんでいく。一方で酒をつがれた相手も、田中から直接様々な情報を教えてもらえるため喜んでいる。
そんな田中の姿を少し離れた場所から眺めながら、小長は思った。
〈これが庶民政治家というものか。こういう形で、相手の心をつかむんだな〉
日本人は、率直な話は相手を気遣うため苦手だ。いくらお酒の席といっても、田中が屏風の前のど真ん中の席でふんぞりかえっていれば、誰も心の中で考えていることをざっくばらんに話そうとはしないはずだ。恐る恐る田中の前に来て、「一杯、お注ぎしましょうか」とお酌しながら、形程度の会話をこなして様子をうかがい、ご機嫌を損ねてはいけないと変な気ばかり遣って、時ばかりが過ぎていく。
ところが田中の場合、そんな相手の気持ちを汲み取り、自ら懐に飛び込む。度量が大きくなければできないことだ。
「一杯、どうだ」
「ありがとうございます。大臣もどうぞ」
田中は、声が大きいから内緒話などできない。すべての話が筒抜けである。その場の端の席に座っている小長でも、聞き耳を立てていれば田中の会話は聞こえてくる。おかげで、この先田中が何をしようとしているのかを前もって知ることができる。しかも役所では聞いたことがないような話も聞こえてくる。そのため、小長は仲間たちにもその情報を流すことができたりした。
そうこうしている内に、次の宴席の開始時間が迫ってくる。
「申し訳ない」
そう言って田中は車に乗り、移動する。
宴席と宴席の間は、クライスラーを飛ばした。クライスラーは8気筒エンジンであり、新聞記者の乗っている日本製の4気筒エンジンの車ではとうてい追いつけない。しかも、信号が黄色でも、構わず無視して突っ走った。
作家:大下英治