元テレビ朝日の日下千帆アナは、バラエティ番組を中心に活躍。アイドル誌にも登場した愛くるしいルックスとノリのいいキャラクターで一躍、人気アナウンサーとして注目を浴びた。しかし、人気もピークの最中、フリーに転身。その胸中に何がよぎったのか──。
アイドル誌のメンバーだった
元テレビ朝日アナウンサーとして、「邦子がタッチ」や「OH!エルくらぶ」など多数の番組で活躍した日下千帆(43)。97年に局を退社後、女子アナ時代のキャリアを生かして現在、キャリアカウンセラー、大学講師など幅広い分野で活躍中。多忙な日々を送る彼女に、まずアナウンサーになろうと思ったきっかけを尋ねた。
「私が就職活動をしていた時は、まさにバブル最盛期。マスコミや広告代理店がもてはやされた時代です。私も御多分に漏れず広告代理店を志望していたのですが、なかなか希望の会社から内定がもらえず、そんな時にアナウンサー試験を受けてみようと思い立ちました。そうしたら、その試験の内容がおもしろくて。例えば『夏休みについて1分間語ってください』っていう試験でも、面接官の方とのやり取りがとても楽しかった。面接を受けていて、『ああ、自分もこういう話術が使えるようになりたいな』と思ったのが、本気で女子アナになろうと思ったきっかけですね」
こうして91年に、みごとテレビ朝日に合格した。
「まず3カ月の研修期間が大変でした。とにかく話した一字一句、動き一つ一つを直されるんです。それが終わってから、いよいよ番組デビュー。初めての番組は午前11時からの生放送のニュース番組でした。そこで、新人アナウンサーは自分で企画を出して原稿を書いて話すのですが、最初は受けのコメントなどがうまく言えなくて。終わったあと、すぐ上司に呼ばれて『お前、さっきのコメントはどういうつもりだ』と怒られてばかり。それが毎日続きましたね」
新人の登竜門である朝のニュース番組を経て、「邦子がタッチ」などのバラエティ番組を担当するようになったのだが、多くのアナウンサーがそうであったように、日下も当初は報道志望だった。
「報道を希望したのですが、ニュースを担当したのは最初だけ、そのあと1年間お天気の仕事をやって、それから『邦子がタッチ』に移りました。その時に〝ああ、私はバラエティ向きなんだ〟と思いましたね(笑)」
その「邦子がタッチ」では水着姿を披露したことも。
「水着はいろんな番組で着ましたよ。ニュース番組でも、プールの中のリラクゼーション法を取材するのに水着になりましたね。水着になること自体は、抵抗なかったのですが、何せ急に言われることが多かったので、『せめて3週間前には教えてください.』みたいなことはありましたね。そうしたら水着もちゃんといいのを用意しているのに(笑)」
日下は大学時代に当時人気だったアイドル雑誌「Momoco」主催のモモコクラブのメンバーだったこともある。
「知り合いから人が足りないからと頼まれて出ただけで‥‥。軽い気持ちで出たらあんなことになってしまって。編集部にもファンレターが届いたりしていたみたいです。入社してから、そのことを他の人から突っ込まれたりしましたね。『おニャン子じゃなくてよかったね』って冗談交じりに言われました(笑)」
バラエティ番組での最悪な失敗
局時代はロケにも頻繁に行かされたが、制作サイドとアナウンサーの立場の狭間で苦労したことも。
「地方ロケでレンコン掘りの取材に行った時のこと。普通にレンコンを掘ればいいのですが、ディレクターはおもしろい映像を撮りたいから、わざとレンコンの池に私が溺れるように細工をして、まんまとハマって溺れてしまって。絶叫だけで中継が終わり、テレビ的にはおもしろい映像だったのですが、東京に帰ってから、アナウンス部で『何でちゃんとコメントを言わなかったんだ』とどなられました。演出としては成功なんですが、アナウンサーとしては大ボケですからね」
「ミュージックステーション」でのアメリカロケでは、大物ミュージシャンの中継でとんだハプニングも。
「大物ロックグループ『KISS』の中継ロケをしていた時です。途中で日本からの音声が届かなくなったので、慌ててその場をつないで、曲を紹介して退場してもらったんです。その直後に日本と音声がつながって『今、X JAPANのメンバーから(KISSに)質問がありまーす』とスタジオから言われたんです。もうその時には、KISSのメンバーは退場してしまったので慌ててメンバーを呼び戻しました。その間、5秒間画面に誰もいない無人状態。あとから『バラエティ史上最大のNG』と言われました。海外中継で音が入らなくなることは、よくあるんですけどね」
そんなちゃめっ気たっぷりなエピソードも彼女の魅力。やがて、さまざまな番組で顔を売り、日下は人気者になってゆく。
「『OH!エルくらぶ』も思い出深い番組です。当時のOLのトレンドを紹介していくのですが、それもまた勉強になって楽しかったですね。スタッフや先輩方ともよく飲みに行きましたよ。一時は毎晩飲んでいましたね。私、大学時代にフラメンコをやっていたのでスペインのワインが好きなんです。記憶がなくなるまで飲んだこともあります。カラオケボックスで他の人が歌っている時は寝ているのに、自分の番が来たらパッと起きて歌ったりして(笑)」
そんな毎日が続く中、売れっ子女子アナの悲しき運命なのか、睡眠時間が少なく疲労も重なり、体力的にも限界を感じ始める。
「朝5時のCNNの番組に出るために前の晩、局に泊まって仮眠を取り、その収録が終わると、今度は昼前から収録が始まるのでまた仮眠をとって起きる、という生活を続けていて‥‥。それが何年も続きました。あと、やはり女性アナウンサーというのは、年齢的にも旬な時期を越えると、いろいろありますしね。もうちょっと元気なうちに他の部署に異動すればよかったかなと思ったりしました」
女子アナも「一つのステップ」
こうして97年、テレビ朝日を退社し、フリーに。まず日下が取り組んだのが、資格を取ることだった。
「まずAFP(ファイナンシャルプランナーの資格の一つ)を取りました。他にもキャリアカウンセラーや協会認定カウンセラーなど、興味のあるものはどんどん取得しましたね。AFPを取得した時はちょうどバブル崩壊時で、経済番組も増えて、番組MCへの誘いもたくさんいただきました」
先見の明があったと言うべきだろう。そんな彼女が今、特に力を入れて取り組んでいるのが、大学や企業などで行うキャリアカウンセリングだという。
「大学で就職活動をしている学生対象にビジネスマナーなどの講義を行ったり、就職の相談に乗ったりしています。これがとてもやりがいのある仕事なんです。自分が担当した生徒が就職の内定の報告に来た時は、喜びもひとしおです。引きこもりの学生を立ち直らせて、就職させたこともあるんですよ。テレビは視聴者の顔が見えないので相手のリアクションがわからないけど、研修とかカウンセリングの仕事は自分が教えることで変わっていくのが目に見えるので、凄く達成感があります」
さらに東日本大震災後には、新たな取り組みも。
「復興に向けてコールセンターの需要が高まっています。オペレーターの指導はもちろんのこと、コールセンターそのものを増やしていきたいですね」
新しい道で、生き生きとキャリアを重ねる日下千帆。最後にあなたにとって女子アナとは?
「大きなきっかけをつかむキャリアの一つ。私は女子アナをやっていて『この仕事は若いうちだけだな』と思ってました。時代もどんどん変わっていきますしね。だから、女子アナもステップの一つと考えて、資格をどんどん取ったおかげで、仕事の幅も大きく広がりました。今、明日がどうなるかわからない時代です。そんな時だからこそ心から笑える人って少ないと思うんです。私は今『笑顔セミナー』という講座も行っています。顔の表情の作り方はもちろん、自分を変え、心から笑えるようになろう、という教えに取り組んでいます。私が教えることで、一人でも多くの人が笑えるようになってくれたらうれしいですね」
そう笑う彼女の表情は、局アナ時代より生き生きとしていた。
「笑顔講座」で一人でも多くの人に心から笑ってもらいたい。そんな志を持つ日下は、これからますます輝いていくに違いない。