かつて男性司会者のサブ的なポジションに甘んじていた女子アナ。しかし80年代に起きた空前の「女子アナブーム」で立場が一変。今や、テレビ局にとって視聴率獲得の切り札とも言える存在にまでなりつつある。しかし、その一方で「30歳定年説」と言われるほど新陳代謝も早い世界と言えよう。はたして女子アナの最前線で生きてきた当事者たちの目には、どのように映ってきたのか。連載第1回は「トゥナイト」で、バラエティアナの礎を築いた元テレビ朝日の雪野智世が振り返る―。
学生時代はダンサーを目指した
「また生まれ変わっても、きっと女子アナになっていますね。私にはこの仕事が天職なんです」
まっすぐな瞳でそう語るのは、人気深夜番組「トゥナイト」(テレビ朝日系)の看板アナだった雪野智世(47)。引き締まった体、シワ一つない肌はとても若々しい。
86年にテレビ朝日に入社。以来、前述の「トゥナイト」をはじめスポーツ、報道など、幅広いジャンルで活躍。95年にテレ朝を退社し、フリーに転向。3年前の08年には44歳で男子を出産し、話題を呼んだ。現在、子育てとアナウンサーの仕事を精力的にこなす日々を送っている。
「そもそもアナウンサーに憧れたのは中学生の時。テレビで『おはよう700』(TBS系)に出演していた見城美枝子さんを見て、その凛とした姿がとてもステキで、女性アナウンサーってかっこいいなと思いました。とはいっても、当時はクラシックバレエに打ち込んでいて、プロのダンサーを目指していましたから、それは漠然とした憧れでしかなかったんですけれど。日本で芸術を極めるのは凄くお金がかかるんですよね。家は決してお金持ちではなかったし、ならば男女が区別なく働ける世界に行きたいと思い、それならマスコミだと上智大学では文学部新聞学科に進学しました。大学で学ぶうちに再びアナウンサーに興味を持って、大学2、3年生の時に本格的にキャスターを目指すようになりました」 こうして受けたテレビ朝日の入社試験もみごと合格。初めての仕事は朝の情報番組「ヤジウマ新聞」だった。
「もちろん緊張しましたよ。緊張しているのをどうやって見せないようにするか、必死でした。初めての生放送は本当にあっという間で、自分が何を言ったかもわからないうちに終わっていました」
と、爽やかに笑う。
そんな雪野智世を語るうえで欠かせないのが、7年間看板キャスターを務めた人気深夜番組「トゥナイト」だ。
「『トゥナイト』では最初の10分弱の『ホットアングル』というコーナーをずっとやらせていただきました。海開きなど季節ものの取材や政治家へのインタビューなど実にさまざま。いろんなところにロケに行きましたね」
「トゥナイト」と言えば、お色気ネタや下ネタも人気の一つなのだが‥‥。
「みんなが思っているほど下ネタは多くなかったんですよ(笑)。山本晋也監督のコーナーで歌舞伎町取材もありましたが、私は直接、関わってはいなかったし、下ネタを振られて困ったということもありませんでしたね」
自前のビキニで取材することも
時には雪野自身が水着姿で取材に出かけたことも。
「ロケでは何度も水着になりましたね。会社では『お前の水着は、経費扱いでいい』って言われましたから(笑)。でも、実際はビキニもワンピースも全て自前の水着でした。今は女子アナの水着は禁止されているけど、当時は禁止されていなかったので、『あ~またやってるな』みたいな感じで、誰にも何も言われませんでした。
『トゥナイト』はもう私の生活の一部。かなりハードな日々で、睡眠時間は毎日3時間ほど。朝3時.4時に寝て、7時.8時に起きる生活でしたね」
そんな毎日が続き、雪野自身の疲労もピークに達しつつあった。
「何だかいっぱいいっぱいになってきたんですよね。7年もその生活を続けていましたから。疲れ切っていたのかもしれません。そんな時に、〝フリーになる〟ことが頭をよぎったんです。このまま局にいて、一生アナウンサーを続けられるかと言ったら、そうとも限りません。
ほとんどの人がある年齢で違う部署に異動してますから。私は一生アナウンサーをやりたい、その思いが強くなり、フリーになる決心をしました」
こうして惜しまれつつも独立を決意、と同時に「トゥナイト」を卒業することとなった。
「最後の収録の時は、泣くのをこらえるのに必死でした。私、テレビで人が泣くのは好きじゃないから‥‥
。終わってからスタッフルームで飲んだりして、みんなに、お疲れさまの乾杯をしてもらって、そこで感極まって泣きました」
その後お別れ会を兼ねて、スタッフと一緒に苗場にスキーに行ったのもいい思い出となった。
「当時の番組のエンディングに流れていた沢田知可子さんの『会いたい』を皆が歌ってくれて、そこでも思わず泣いてしまいました」
こうして20代を過ごしたテレビ朝日に別れを告げ、生涯女子アナの夢に向かって、雪野は旅立った。
テレ朝退社後は、「なるほど!ザ・ワールド」(フジテレビ系)をはじめとするテレビ番組や、イベントの司会など仕事の幅を少しずつ広げていく。
「フリーになっていちばんよかったことは、自由な時間ができたことですね。スポーツクラブに通えるようになりましたし、旅行も行きました。元フジテレビの岩瀬惠子さんとは入社前から仲がよくて、彼女ともよく旅行しましたね。今でも時々一緒にゴルフに行きますよ」
そのゴルフだが、なんと彼女、ベストスコア78の記録を持つ腕前だとか。
「子供が生まれる前は、週に一回はコースに出ていました。当時ハワイやアメリカにも出かけ、年間で70ラウンドはプレーしていました。今でも月に2、3ラウンドはしていますよ」
その特技を生かして、現在もゴルフ番組の司会を担当。他にも「スーパーJチャンネル」(テレビ朝日)に出演。身の危険を感じる取材にも果敢に取り組んでいる。
「取材先に行ったら暴力団関係者がいて、どなられたこともありました。追跡取材もやりますよ。年金未払いの人や家賃を滞納している人を追跡したり、悪質な金融会社を追っかけたり。たとえどなられても、冷静に対処する姿勢だけは絶対に崩しません」
44歳での妊娠が人生の転機
フリーになり、活躍の場を着実に広げていった彼女だが、07年、人生の大きな転機を迎える。
「本当に驚きました。最初、体調が悪くて病院に行ったら、それがまさか妊娠だったなんて」
当時雪野は、子宮筋腫も抱えており、そんな中での妊娠。病院で懐妊を告げられたその日に、即入院となった。当時44歳。
「やはり不安でしたよ。子宮筋腫もありましたし。でも、産むって決めたら覚悟が決まりました。とにかくあれこれ考えてもしょうがない、今は無事にこの子を産むことだけを考えようと」
だが、いくら覚悟を決めたとはいえ、入院生活では嫌でもさまざまな現実と向き合わなければいけなかった。
「羊水検査とか、考えれば不安になることがいっぱいありましたが、自分の気をしっかり持つようにしました。『これでダメだったら、しょうがないや』と最悪の事態も、受け入れる覚悟はしていました」
数カ月の入院を経て、08年5月、無事元気な男の子を出産。この時の経験を彼女は著書「出産力」(主婦と生活社)に書いている。
「出産をしたくても、40歳だから、などと自分の年齢を区切って悩んでいる方が多いですが、諦めないでほしい。『私も産んだのだから、みんなもできるよ』ということを伝えたくて、本を書きました。この本を読んで、同じような立場になった女性たちに希望を持ってもらえたらうれしいですね。私はブログをやっているのですが、同年代で子育てしている人たちが興味を持って見てくれて、コメントをくださるのもうれしいですね。息子もおかげさまですくすく育っています」
その愛息だが、今年の5月で3歳の誕生日を迎えた。誕生日は親子3人で行きつけのお寿司屋さんでお祝いをしたという。
「今、息子は私一人で育てています。旦那とは、彼の仕事の事情で数年前から別々に暮らしているのですが、お互いに行き来をして、いい関係でいますよ。
彼とは知り合いが経営するお店で知り合いました。たまたまゴルフの仲間と来ていて、そこで出会ったんです。みんなで飲んで2軒ハシゴして、その2日後に、今度は偶然、同じスポーツクラブで彼に会ったんです。スポーツクラブのあとに2人で30分くらいお茶して、そこで『じゃあまた、来週会おうか』と約束したんです。会う回数を重ねるうちに、この人とならずっと一緒にいられるかも‥‥って、決めちゃったんですよね。でも、今にして思うとその時は勘違いしていたのかも(笑)」
別居生活で夫婦関係も良好に
こうして、同居生活を始めたのだが、先に述べたように、彼の仕事などの事情で現在は別々に暮らしている。だが、むしろ別々で生活する今のほうが以前よりも関係は良好だという。
「一緒にいるといろんなことが見えてきますし、私も1人で生活してきた時間が長かったし。彼も以前結婚していたとはいえ、勝手気ままな生活をしていたんでお互い他人と住むことに向いていなかったのかもしれませんね。去年は彼の家でお友達を呼んでホームパーティもやりました。別々に暮らしてはいるけど、それはそれでいい距離感が保ててとてもいい環境ですね。むしろ離れて暮らしてからのほうが、精神的にもよいみたいです」
そんな彼女の今の楽しみは、息子を相手に晩酌することだという。
「息子が生まれてから、めったに飲みに行くこともなくなりました。家に帰って息子とその日の出来事を話しながらビールを飲むのが、今いちばん幸せですね。仕事が終わって帰ると、息子が冷蔵庫から『ハイ、ママ、ビールだよ』と言って、持って来てくれるんですよ(笑)」
出勤前に必ず交わす会話があるという。
「仕事に行く前に、必ず『今日は何のお仕事?』と聞かれるんです。そういう時には『ニュースのお仕事だよ』とか『今日は誰々と打ち合わせだよ』と細かく教えます。そうしないとうるさいので(笑)」
現在、雪野は「Jチャンネル」などの番組や司会の他に、「アクティブ・ラーニング・スクール」という子供や学生に日本語を教える仕事に取り組んでいる。そこで、言葉の使い方から人前でのスピーチのしかたなど、雪野がアナウンサーとして培った知識と経験を、次の世代に伝えている。この仕事に雪野は今、やりがいを感じているという。
「自分のやってきたことを伝えていくことが、とてもおもしろいと思えるようになったんです。私から学ぶことによって、子供たちにもたくさん可能性を見つけてもらいたいと思います」
母であり、キャスターであり、そして次の新たな世代育成に尽力する雪野智世。年齢を重ねるごとに、輝きを増す彼女。やはり「女子アナ」が天職なのかもしれない。