その後の岸は後継の自民党総裁に池田勇人が選出されたあとの7月14日、首相官邸でのその祝賀会で自ら万歳三唱を唱えた瞬間、暴漢に左太腿を刺された。翌15日、池田が首班指名を受けたのを見届け、正式に内閣を総辞職したのであった。時に63歳だった。
しかし、退陣後も“生臭さ”は一向に取れず、総辞職から早や1カ月も経たないうちに自らの派閥の岸派「十日会」を結成、自身は外遊で海外の要人と会談するなども含め、なお政界への影響力を保持し続けた。それは、昭和53年8月、81歳で引退するまで続いたものだった。
かくて、飛び切りの秀才官僚から国論二分の新安保条約成立に挑んだ「昭和の妖怪」は、満90歳をもって鬼籍に入った。
生前、長寿の秘訣を問われると、「風邪をひかず、転ばず、義理を欠くことだ」とケロリ、「日本の新聞は読まんよ。読むのはスポーツ紙だけだ。スポーツ紙だけが本当のことを書いている」「私を陰謀家と言う人がいるが違う。“陽謀家”なのだ」と、“修正”、周囲をケムにも巻き続けたのであった。
ちなみに、岸の「書」には、「力強く味がある一級品」との折り紙がついていた。どこで上手くなったのかと問うと、「“巣鴨”の獄中で腕を磨いた」とこちらもケロリであった。ここでも、ハラのすわりがのぞけたのだった。
この11月20日で戦前の桂太郎総理の通算在位日数を超えて2886日の歴代最長となった安倍晋三総理は、岸の孫にあたる。晋三の父・安倍晋太郎は、岸の長女・洋子の女婿である。その晋太郎は「総理の器」と言われたが、惜しむらく病魔に倒れ、夢を果たせなかった。
息子の晋三がそれを果たしたワケだが、政権運営批判などどこ吹く風だ。どうやらその“図太さ”は、祖父・岸からの隔世遺伝ではとみているのである。
■岸信介の略歴
明治29(1896)年11月13日、山口県生まれ。第一高等学校入学後、養子先の岸に改姓。A級戦犯容疑で逮捕、巣鴨拘置所収容・釈放。公職追放・解除後、改憲を目指す「日本再建連盟」会長。昭和32(1957)年2月、60歳で総理就任。昭和62(1987)年8月7日、90歳で死去。
総理大臣歴:第56・57代1957年2月25日~1960年7月19日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。