前任の岸信介が、物情騒然の中で日米新安全保障条約を成立させたのと引き替えに退陣したあと、池田勇人は自民党総裁選を制して総理大臣のイスに座った。昭和35(1960)年7月である。
池田は内閣のスタートにあたってあえて「低姿勢」を強調、併せて「寛容と忍耐」をモットーに、その目配りを「世論七分、党(自民党)三分」に置いたのだった。
振り返れば、池田より遥かに秀才として聞こえた岸は、あえて経済を捨て、憲法改正への強い思いも胸にしまい、世論を二分させても「日米新安保」を強行させるといった“政治の季節”を残して退陣した。ために、池田はこのうえは人心掌握には経済しかないと割り切り、「所得倍増計画」を前面に出して経済成長を最優先、高度経済成長時代を演出することにしたのだった。
また、経済にカジを切ったもう一つの理由に岸政権で決定的となった野党との政治対決を、極力、修復せざるを得ないという事情もあった。経済を争点とするなら、与野党の決定的対決とはならず、そのことによる「所得倍増計画」の推進の可能性も読んだということであった。
一方、「所得倍増計画」に対しては、「池田はウソは申しません。経済のことは、この池田にお任せ下さい」とのテレビCMまで流し、当初、3年間の9%成長率で、10年後には国民所得を倍増できると自信を示した。結果的には、倍増計画は10年を待たず、7年目の昭和42(1967)年に達成されている。戦後日本の経済の発展は、ここを起点に突っ走ることになったということである。
そうした中で、池田は外交にも経済を持ち込んだ。それまでの日本のトップリーダーは首脳外交で経済を議論することはほとんどなかった。しかし、例えば欧州歴訪の折のドゴール仏大統領との会談では、日本製品の海外進出に熱弁を振るい、ドゴールに「トランジスタの商人のようだ」と皮肉られた。日本のトランジスタ・ラジオは、すでに世界に知られた製品だったのである。
池田政権は、その後、都合4年3カ月をまっとうすることになるのだが、この間、池田は一貫して経済大国への道を模索し続けている。
米国のケネディ大統領とは、日米合同委員会を設置、経済全般の日米協力体制の構築に取り組んだ。また、中国とは政経分離とする一方で、日中貿易を模索する一歩としての「LT貿易」を開始した。さらには、昭和39(1964)年には「IMF(国際通貨基金)八条国」への移行、「OECD(経済協力開発機構)」への加盟を達成、いわゆる先進国への仲間入りを果たすことに成功した。戦前のアジアの政治大国が、敗戦を経てこんどは経済大国として甦ることができたのは池田の功績と言ってよかった。
■池田勇人の略歴
明治32(1899)年12月3日、広島県生まれ。京都帝国大学法学部卒業後、大蔵省入省。難病を得て休職。復職後、大蔵次官。議員1年生にして、蔵相。昭和35年7月第一次内閣組織。総理就任時59歳。昭和40(1965)年8月13日、ガンのため死去。享年65。
総理大臣歴:第58~60代 1960年7月19日~1964年11月9日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。