岸信介が政治生命を賭けた新日米安全保障条約は、昭和35(1960)年1月19日、日米間で旧安保条約を改定、調印された。条約批准に向けての承認案審議の通常国会は、戦後最も与野党が緊迫感を持って臨んだそれと言えた。
岸総理はというと、例によってソツのない答弁を繰り返し、野党からは「八方美人」「両岸」「五岸」などとヤユされた。しかし、自民党は国会終盤の5月20日、野党第一党の社会党らの反対を押し切り、衆院の安保特別委で審議中に強行採決、本会議も同様の強行採決のうえ衆院を通過させた。条約の承認は「衆院の優越」という憲法の規定により、衆院通過後30日経てば参院の議決を経なくても「自然成立」することから、あとは新条約の批准を待つばかりとなったのだった。
ちなみに、この承認案成立へ“暗躍”したのが、当時42歳の自民党副幹事長の田中角栄だった。自民党の秘書団を総動員、野党により国会の電源が切られた場合に備えて別の電源を用意するなど“陰の立て役者”であった。
しかし、この過程があまりの強引さであったことから、世論も一気に硬化、連日、首相官邸、国会周辺などで全学連など学生や労働者が中心となっての「岸内閣打倒」スローガンのデモが続いた。とりわけ、新安保条約が自然成立となる日の6月19日から5日間の予定で訪日することになっていたアイゼンハワー米大統領の先遣隊として来日した側近のハガチーもデモ隊に包囲されて羽田空港で足止め。一方で国会突入を巡って学生デモ隊と警官隊が衝突、東大生・樺美智子が死亡するなど、物情騒然とした日々が続いた。
例えば、その国会突入の際の6月15日の「ラジオ関東(現・ラジオ日本)」は、深夜の2時過ぎまで次のような現場中継をしている。アナウンサーの声は、いかに緊迫、騒然とした状態だったかを伝えている。
「こちら現場のFMカー。先程から雨が横なぐりに降り続いています。いま目前で警官が突進しました。棍棒を振り上げています。あっ、いま私は首をつかまれました。放送中ではありますが、警官隊が私の頭を殴りました。(涙声で)あっ、『おまえ、何してるんだ』と私の首っ玉をつかまえましたッ。『検挙しろ、検挙しろ』と(警官が)向こうのほうで言っています。これが現状であります。凄い暴力です。この状態、法律も秩序も、何もありません。ただ憎しみのみ。怒りに燃えている警官と、そして学生たちの憎しみあるのみ‥‥」(『週刊朝日』昭和35年7月3日号・誌上録音より)
結局、アイゼンハワーの訪日も直前で中止となり、こうした中で6月19日の新安保条約の自然成立の日を迎えたのだった。
さて、この日の岸の過ごし方に、その豪胆なハラのすわりぶりが表れていた。当時を取材していた政治部記者のこんな証言がある。
「6月19日、国会周辺などに約30万人の群衆が抗議のため押し寄せていた。とくに首相官邸はデモ隊にいつ襲われるかの雰囲気があり、身の危険を感じた閣僚、自民党幹部、岸の側近などは、次々に官邸から抜け出してしまった。官邸に残った国会議員は、岸とその実弟の佐藤栄作(のちに総理)だけ。当時の小倉謙警視総監も『総理、官邸の警備に自信が持てませんので退却を』と願い出たが、岸は言ったそうだ。『オレは殺されようが動く気はない。覚悟はできている』と。午前零時の自然成立をまんじりともせず待った。その後、午前6時を過ぎて、ようやく渋谷区南平台の私邸に戻ったのです」
結果、自然成立から3日後の6月22日に新条約の批准書が交換され、岸はそれを見届けた翌23日、退陣を表明した。「日米修好100年」も記念してのアイゼンハワー米大統領の招請が、キャンセルに追い込まれた責任も一緒に取る形であった。一方で、その退陣劇は、戦前の強権主義を踏襲、墓穴を掘ったと言えなくもなかった。
■岸信介の略歴
明治29(1896)年11月13日、山口県生まれ。第一高等学校入学後、養子先の岸に改姓。A級戦犯容疑で逮捕、巣鴨拘置所収容・釈放。公職追放・解除後、改憲を目指す「日本再建連盟」会長。昭和32(1957)年2月、60歳で総理就任。昭和62(1987)年8月7日、90歳で死去。
総理大臣歴:第56・57代1957年2月25日~1960年7月19日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。