こうした三木の「したたかさ」は、それまでに始まったことではなかった。
三木は戦前は無所属代議士だったが、戦後は群小の政党が離合集散する中、まず協同民主党に入り、その後、国民協同党、国民民主党、改進党、民主党と渡り歩き、昭和30年11月15日の民主党と自由党との保守合同による今日の自由民主党(自民党)が結成されると参画、少数派閥ながら三木派を結成、ここでも存在感を見せつけるのだった。ために三木には「バルカン政治家」の異名が付いて回った。
「バルカン政治家」とは、第一次大戦当時、バルカン半島の小国群が右に左に揺れながらも、したたかに国の保全をはかってきたことに由来、それをリードした政治家たちを指す。
三木は、若い頃は「反官僚政治」を声高に叫び、自民党での後半は「政治の近代化」「反金権政治」を旗印とし、自らは「クリーン三木」を標榜するといった具合でもあった。ここでは、「バルカン政治家」の一方で、「生き残りの達人」の異名も、またあったのだった。
なるほど、三木がタダ者でないのは、先の小政党転々の中で、自らはいずれも党首あるいは幹事長などの重要ポストに就いていることが証明している。自民党にあっても、“党内野党”“保守傍流”の立場ながら、副総理、外務、通産などの重要閣僚ポストをしっかり手にしたうえ、最後は総理のイスにまで辿りついていることが、「生き残る達人」の証左ということである。ちなみに、こうした人物は政界では極めて稀有な「出世物語」のケースであり、まさに田中角栄いわくの「しぶとい。しかし『芸』があるからアレは生き残る」の“実証”でもあったのだった。
一方で、「ねばり腰」の強さも群を抜いていた。政権の後半は、三木の政権運営に不満が爆発、都合三度にわたる「三木おろし」の策謀に揺さぶられつづけたが、その都度、しぶとくも立ち上がってくるのだった。
三木に反撃する田中・大平の主流両派に、「ポスト三木」に執念を燃やす福田赳夫率いる福田派が加わって、まずは「早期退陣」でスクラムが組まれた。「三木包囲網」の第一弾である。
第二弾はそれから約3カ月後の、田中角栄が拘置所から保釈された直後で、田中、大平、福田三派と、さらに反三木勢力が加わった。そのうえで、間もなく「反三木」感情がピークに達し、公然の倒閣運動に転じたのが第三弾ということだった。
この間、少数派閥で“孤軍奮闘”の三木はそれでも「ねばり腰」を発揮、ついには任期満了の衆院選を仕切って挽回を策した。しかし、選挙は敗北、刀折れ、矢尽きた感の中で、選挙敗北の責任を取る形でようやく辞意表明をしたということだった。
こうした三木の恐るべき「したたかさ」「ねばり腰」を支えたのは、じつは「昭和電工」創業者・森矗昶(のぶてる)の二女で夫人の三木睦子(むつこ)であった。
「睦子がオチンチンをつけて生まれていたら、間違いなく三木より先に総理大臣になっていただろう」との声が高かったほどの、飛び切りの「女丈夫」だったのである。
■三木武夫の略歴
明治40(1907)年3月17日、徳島県生まれ。アメリカ留学を経て、明治大学法科卒業。昭和12(1937)年4月、衆議院議員初当選。昭和49(1974)年12月、田中退陣を受け「椎名裁定」で自民党総裁、三木内閣組織。総理就任時67歳。昭和63(1988)年11月14日、81歳で死去。
総理大臣歴:第66代1974年12月9日~1976年12月24日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。