ヒットメーカーの名をほしいままにしてきた鎌田敏夫氏。1967年の青春ドラマ「でっかい青春」(日本テレビ系)でデビューしてから、さまざまなジャンルのドラマ脚本で高視聴率を叩き出してきた。代表作3本の「とっておきのエピソード」を聞き出した!
──鎌田さんの脚本でまず頭に浮かぶのが「俺たちの旅」(75~76年、日本テレビ系)。高度成長期時代、落ちこぼれ三流大学生(中村雅俊)と悪友の社会人(田中健、秋野太作)の自堕落な青春を描いて共感を呼びました。
「『大学生を主役にしても当たらない』と言われてた時代。大学生はテレビドラマなんて観てなかった。それで『10年後も見られる番組を作ろう』を合言葉に、はやりの店、言葉、場所をあえて入れずに作ったんだ。日テレができて20年ちょっとの頃で、現場は自由な雰囲気にあふれていた。週に2、3回、飲みながら打ち合わせしてました」
──今で言う「だめんず」を描いた画期的なドラマ。たちまち人気になり、その後も「俺たちの朝」「俺たちの祭」とシリーズが続きました。
「遊びの合間に仕事してるって感じだった。セリフは考え抜いて出てくるものじゃない。遊んでる時にポッと出て来たりする。だから撮影前日まで打ち合わせしたり、脚本が上がるのが収録1週間前だったりもしました」
──一番の苦労は何でしたか。
「最初、雅俊の主演だけ決まってたの。水谷豊と村野武範のトリオだったのが、雅俊が主題歌を歌うと聞いて2人とも降りちゃった。それで歌手だった田中をキャスティングしたんだけど、2人ともドラマは新人同様だったので、芝居のできる秋野を入れてもらった。でも、今度は雅俊が‥‥」
──どうしたんですか?
「『こんな女好きの役やって大丈夫なんですか』って言ってきた。『大丈夫、大丈夫。ゲイリー・クーパーだって、いい人の役なんかやってないから』って酒飲みながら説得した。本番では雅俊も一切セーブしないでやってくれたので、あの野放図なキャラができた」
──番組の打ち上げで胴上げをされたそうですが。
「あれが最初で最後の胴上げだったね。当時のスタッフ、キャストとは本当に仲よくてね。今でもよく集まっては飲み会やってる。10年、20年、30年後の続編ができたのも、そのおかげだと思ってます」
──「金曜日の妻たちへ」(83~85年、TBS系)もシリーズになりました。3作目の「──恋におちて」の最終回は23.8%を記録。元カレや元カノとの再会から始まる大人の男女の切ない恋を描きました。
「下町ホームドラマ全盛の頃に、郊外を舞台にしたドラマをやりたい、というのが発端。『郊外に住む35歳の主婦だけが見てくれたらいい』と言って始めたドラマでした。夫婦の友情物語がテーマで、キャスティングも地味だと、始まる前は『これではちょっと』と、局から言われていたらしい」
──主題歌が大ヒットし、舞台になった東急田園都市線の地価が高騰。不倫がクローズアップされ、“金妻”が流行語になるなど、ものすごいブームでした。
「DVDができた時に見直したら、泣かせるシーンがないのに泣けてくる。芝居をここまでやってくれたかと思ったら、書いてるほうは泣けてきたりする時があるんです」
──山口智子と松下由樹の「29歳のクリスマス」(84年、フジテレビ系)は、女性にバカウケでしたね。
「あの時は仕事のストレスで10円ハゲができたという話をたまたま食事をした女性から聞いて、それでドラマのファーストシーンができた。仕事のストレスで女性にもハゲができるというのは、それだけ女性も仕事が大事になってきた時代の象徴だった。ドラマは、そんな幸運が積み重なってできていくものなんです」
──キャスティングですったもんだしたそうですね。
「山口智子が背が高いので、もう1人も背の高い女性にしたかった。結果的には、柳葉敏郎も含めて。3人がほぼ同じ背丈になった。それが、男女雇用機会均等法の時代を象徴していた」
──恋も仕事も諦めない貪欲な女性像が注目され、最終回は26.9%を記録。向田邦子賞、芸術選奨文部大臣賞を受賞しました。
「ラストシーンで、プロデューサーが俺の意図を理解して、深夜にもかかわらず10分余りのシーンを撮り直してくれたそうなんだ。この話は、(今年6月に上梓した初エッセイ集の)『来て!見て!感じて!』(海竜社)を書く時にプロデューサーに確認したから確かだと思う。脚本がいいと、スタッフとか役者がノッてやってくれる。脚本家冥利に尽きたね」