テリー 三田さんはクールですね。普通、クリエーターの方には「俺にはもっと違う才能があるんだ」とか、「人と違う捉え方をしたい」とか、そういう主張みたいなものがあるじゃないですか。だからアイデアが出ないとか「俺はもうダメだ、限界を感じる」と思う方って、そういう「アイデアがまずありき」といった捉え方をして、まだ見果てぬ自分の才能を求めていった結果、力をつけてきた人が多いと思うんです。でもそういう捉え方ではなく、「商品設計」という言葉を使う作家さんは初めてです。だからお話をうかがっていると、とても新鮮な感じがする。
三田 僕は実家で商売をやっていたというのが、一番の大きな原点なんですね。
テリー 岩手で、洋服屋さんをやっておられたんですよね。
三田 はい。昭和57年の24歳の頃に、家業がどんどんと衰退していったので、1年間のサラリーマン生活を辞めて、兄と跡を継いだんです。
テリー お店ではどんな洋服を売っていたんですか。
三田 田舎なのに、ブランド品をいっぱい並べて。父親がわりとそういうのが好きだったんです。VANとか、アイビールックのものとか。アイビーがダメになったらまた、いろいろと別のものを仕入れてみて。ラコステのインポートの1万2000円のポロシャツとかを、田舎で平気で売っていたんですよ。経営は苦しい一方でしたね。
テリー 自営業が悪化している間、どうされたんですか。
三田 兄は田舎の資産をそれなりに引き継いでいる。だけど僕は次男だったので、手持ちの資産が何もない。これはもう自分で何とかするしかないと思って、現金をすぐに手に入れられる方法は何かと考えた時に、漫画でとりあえずチャレンジしてみようかと。
テリー その発想はすごいですよね。僕もやってみたいけど、絵がうまくないし。漫画というと、アシスタントに行ったりして、地道な努力があってからデビューするとか、そういう世界かなと思っていたんですけど。その前から、漫画は描いていたんですか。
三田 いえ、まったく。
テリー ええっ。
三田 漫画って、まずは新人賞があるんですよ。ある時、雑誌で読んだ新人賞の募集ページに「賞金100万円」と書いてある。ところが受賞作品を読んでみると「そんなに大しておもしろくないなぁ」と。「これぐらいなら、俺もいける」と思ったんです。
テリー 「俺もいける」と思えるのがすごい。俺だったら、ビビッちゃいますよ。そこが三田さんは、ずうずうしいといえばずうずうしい(笑)。いい意味でポジティブ。だけどそれで、講談社の「ちばてつや賞」に、30歳で入選してデビューされるわけですね。ところで、プロの漫画家になると、常に新しい題材を見つける必要があるじゃないですか。それはどうしたんですか。
三田 新人のうちというのは、自分がこういうものを描きたいとか、ああいうものを描きたいと言っても、なかなか企画が通らないんですね。実績がないので。最初のうちは、だいたいは編集者から注文を受けて描く。4~5年はそういうことをやっていたんです。僕は注文を受けると、だいたい何でも「あ、描きますよ」と。競馬とかもやったことがないのに、競馬漫画を描いたり(笑)。
テリー 経験がゼロなのに描かれたんですか? それは、競馬をある程度勉強して、ということですか?
三田 いえ、まったく。競馬場に行ったこともなかったし、馬券も買ったことがなかった。
テリー とんでもない男ですね(笑)。
三田 だいたいみんな断るらしいんです。「競馬漫画描きませんか」「いや、競馬やったことありません」って。
テリー 俺も麻雀やらないから、もしも麻雀漫画の依頼が来たら「すみません麻雀できないんで‥‥」とか言っちゃうと思う。
三田 だけど僕は「あ、いいですよ、描きますよ」って言うんですよ。
テリー 大したもんだ。
三田 そういう実績が積み上がっていくと「こんなもの描きたいんだけど、あんなものを描きたいんだけど」という提案が、だんだんと通っていく感じですね。