11月15日に95歳で死去した、創価学会の池田大作名誉会長。そんな池田氏に対し、元オウム真理教幹部で「ああ言えば上祐」と言われて連日マスコミに登場していた宗教法人「ひかりの輪」の上祐史浩代表は、自身のX(旧Twitter)で、次のように追悼コメントを発信した。
〈生前、オウム真理教時代において、大変ご迷惑をおかけしたことにつき、改めて深くお詫び申し上げます〉
上祐氏が指す「大変ご迷惑」というのは、オウム真理教による1993年11月と12月の2回にわたる、池田氏暗殺未遂事件(刑事事件としての立件なし)のことだ。当時、上祐氏と並んでオウムの広告塔として頻繁にメディアに登場していたのが、元「日劇ダンシングチーム」のトップダンサー兼歌手として人気を博した、鹿島とも子だった。
彼女はイギリス人の父と日本人の母を持つハーフで、スキー場での事故で頸椎損傷の重症を負い、一時は再起不能とまで言われたが、懸命のリハビリで奇跡のカムバック。そんな鹿島が突如、東京・南青山のオウム真理教東京総本部道場で「引退・出家」記者会見を開いたのが、1994年7月7日だったのだ。やつれた表情で、鹿島はこう語った。
「今から5年前、リハビリでお世話になっていたカイロプラクティックの先生が36歳の若さで突然亡くなり、先生のためにお祈りしていた時、『本屋に行きなさい』という声が聞こえてきたんです。本屋に行って偶然、手にしたのが麻原(彰晃)尊師の著書だったんです」
その後、オウムの病院で治療を続けた彼女は、自転車に乗れるまでに回復したことで入信を決意。
「出家することに不安がないと言ったらウソになりますが、私は煩悩に弱いから、出家はいい方法だと思う」
当時、鹿島には前年秋に離婚した夫との間に19歳の長女と、9歳の長男がいたが、すでに2人の子供も入信しているとして、
「私自身は、広告塔などとは思っていません。この会見も自発的なもの。出家に関しても、麻原尊師にはひと言の相談もしていません。全ては一人で決断したものです」
広告塔ではないと強調したのだった。
ところが会見から1年後の1995年5月、実の娘を逮捕・監禁したとして逮捕され、懲役2年、執行猶予4年の判決が下された。そして千葉県の実家に身を寄せる中で、洗脳から解放された鹿島は翌96年、「オウムの〝鬼母〟と呼ばれて」(近代映画社刊)を出版。その後、ホームヘルパーの資格を取得して10年以上、介護職に就いたが、2002年には芸能活動を再開。ただ、メディアでその姿を見かけることはなくなった。
結局、オウムと出会ってしまったばかりに夫とも離婚し、子供たちとの間にも確執を生んだ鹿島。地下鉄サリン事件から28年。彼女もまた、オウム真理教により人生の歯車を狂わせられた一人だったのである。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。