「江戸城の場合には、格式から言えば、上から上臈(じょうろう)、御年寄(おとしより)、御中臈‥‥ときて、一番下が御半下と呼ばれる水くみ女中。ここまでが正式な女中で、それ以外に御年寄たちが自分で雇って身の周りの世話をさせていた、部屋方と呼ばれた『女中の女中』という身分の娘たちがたくさんいたのです。それが江戸の町娘や近在の豪農の娘たちだったわけです。時代によって変動がありますが、正式な女中が千人近く、それに部屋方を加えると『後宮の佳麗(こうきゅうのかれい)三千人』という表現もあながちウソではなくなります。将軍の生母は鎌倉幕府や室町幕府の時代には、それなりの家格や素性の女性ですが、江戸幕府の時代は八百屋とか、魚屋、あるいは農家の娘という例が多くあります」
江戸幕府というのは「腹は借り物」で、母親の身分・素性をあまり問題にしなかったとも岡崎氏は語る。
「もちろん将軍家の正式な奥方(御台所・みだいどころ)は宮様とか摂家の姫君を迎えるわけですが、大奥の女中で出自が悪いからといって、産まれた子が将軍になれないということはありません。そもそもの身分にかかわらず、先に生まれた男の子が将軍になっています」
家康はお大の方という、のちに松山藩主などになる戦国時代の豪族の娘が母親だ。
「ところが犬公方で知られる5代将軍綱吉になると、八百屋の娘さん(お玉の方)。家光の乳母だった春日局(かすがのつぼね)が町で目に留めて、家光の大奥に入れ、綱吉を産んだとも言われています。のちに桂昌院(けいしょういん)として護国寺を造らせるなど、ビッグマザーになります。6代将軍家宣(いえのぶ)も魚屋の娘ともいわれるお保良(ほら)の方という身分の低い女中の子ですし、その次の7代将軍家継(いえつぐ)の母親も住職の娘のお喜代(きよ)の方です。8代将軍吉宗に至っては、紀州徳川家の和歌山城の湯殿で世話をしていた百姓の娘とされています。暴れん坊将軍らしいとも言えますね。そういう中で、ちゃんとした産まれなのが最後の将軍の15代慶喜(よしのぶ)です。有栖川宮織仁親王(ありすがわのみやおりひとしんのう)の娘の吉子(よしこ)さんが水戸徳川家に嫁ぎ、水戸藩主の斉昭(なりあき)の正室になって7番目の男の子として産んだ七郎麿(しちろうまろ)が慶喜です。母親の家柄としては慶喜はピカイチなんです。徳川将軍家にお嫁さんとして外様大名から来ているのは、島津家だけです。2人いますが、13代将軍家定(いえさだ)の御台所になった天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)が有名ですね。篤姫は島津斉彬の子供ということになっていますが、実は分家のお嬢さんを養女として迎えて、そのあとに近衛家の養女として徳川家に押し込まれたんです。それは斉彬の推す一橋慶喜を将軍に押し立てるためでした」
岡崎守恭(おかざき・もりやす):1951年、東京都生まれ。早稲田大学人文科卒業。日本経済新聞社入社、北京支局長、政治部長、編集局長(大阪本社)などを歴任。歴史エッセイストとして、国内政治、日本歴史、現代中国をテーマに執筆、講演活動中。著書に『自民党秘史 過ぎ去りし政治家の面影』。