歴史は夜、女の股から作られた? 誰もが知る歴史の裏舞台には「世継ぎには誰がなるのか」「はたまたそれは誰の子なのか」を巡る正室や側室たちの暗闘、体を張った血脈の歴史があった。
「昨年の大河ドラマ『西郷どん』で、『お由羅騒動』のお由羅を演じた小柳ルミ子さん、これまでの役柄の中でも、ピカイチでしたね。あの凄みのある怖い感じが。幕末の薩摩の殿様が40年を共に過ごした側室で、年季の入ったたたずまいというのがよく出ていた」
こう語るのは、歴史エッセイストの岡崎守恭氏。
「お由羅騒動」というのは、江戸末期の薩摩藩に起こった島津家27代当主の島津斉興(なりおき)の正室の子である斉彬(なりあきら)を早く藩主にしようとする勢力と、側室のお由羅の子である久光を跡継ぎにしようとする一派との跡目争いである。藩主と愛人を巡る有名な騒動だが、彼らの墓所(鹿児島市)を訪ねた岡崎氏はその墓の配置に違和感を覚えたという。
「斉興は安政6(1859)年に亡くなり、お由羅はその7年後の慶応2(1866)年に亡くなっていますが、斉興の墓石のすぐ隣にお由羅の墓石が並んでいるのです。この墓所はすでに廃寺になった玉龍山福昌寺(ぎょくりゅうざんふくしょうじ)の跡にあり、島津家の6代から28代の斉彬までの当主とその家族の墓石が残っているのですが、当主の隣はたいてい正室(正妻)です。ところが斉興のところだけは隣に側室のお由羅の墓がある。正室の弥姫(いよひめ/周子(かねこ))の墓は斉興とは離れた場所にあり、斉彬の息子で夭折した孫たち(菊三郎、虎寿丸)とともに眠っています。正室にもかかわらず差別待遇ですね。墓を造ったのはお由羅が産んだ久光だったから、父親のそばに母親を置いたということもあるだろうけど、斉興のお由羅への寵愛を物語るものです」
この時代、将軍や藩主たちは数多くの側室をはべらせているのが普通だったが、お由羅は江戸の町娘だった。現在の東京・高輪にあった薩摩藩の屋敷に奉公に出ている時に、参勤交代で江戸にいた斉興に見初められ、正室(弥姫)の死後には実質的な後妻にまで上り詰めた。当時の藩主の妾とはどんな存在だったのだろう。
「お由羅は薩摩藩の正式の記録では藩士の娘ということになっていますが、事実は異なり、由緒のある武家の養女という形にして町娘を引き上げたということです」
ならば当時、江戸市中には、現在でいうスカウトマンがいたということなのだろうか。
「行儀見習いということで志願してきた町娘たちを採用していたのです。江戸城の大奥でも、女中の中で将軍とお目見えでき、世話をする御中臈(おちゅうろう)などになる娘さんは基本的に旗本の娘です。その下にいるのがだいたい、御家人の娘。そのもっと下の下働きをする女中は、みんな町娘だったり、豪農の娘なのです。旗本の娘などの場合には、高い地位に就くと、一生奉公なのですが、下の娘たちは年季が明けて実家に戻れば箔がつき、いいところにお嫁さんに行けるわけです。ちょっと語弊があるかもしれないけれど、今で言えば、大企業のキャリアウーマンで、秘書室にいました、というふうな感じです」
岡崎守恭(おかざき・もりやす):1951年、東京都生まれ。早稲田大学人文科卒業。日本経済新聞社入社、北京支局長、政治部長、編集局長(大阪本社)などを歴任。歴史エッセイストとして、国内政治、日本歴史、現代中国をテーマに執筆、講演活動中。著書に『自民党秘史 過ぎ去りし政治家の面影』。