2002年の第74回春の選抜では、のちのプロ野球のセ・パを代表する右セットアッパー同士の投げ合いが実現している。
セ・リーグ“代表”は昨シーズン限りで読売巨人を退団した西村健太朗。かたやパ・リーグ“代表”は現在も千葉ロッテで活躍する大谷智久。西村は2年生ながら広島の名門・広陵のエースナンバーを背負い、対する大谷は兵庫の強豪・報徳学園の大黒柱。しかもこの大会優勝候補筆頭チームの絶対的エースであった。
両チームは2回戦で対戦。広陵は初戦で西村が古豪・中京大中京(愛知)相手に被安打5。4‐0での完封勝利。対する報徳学園はこの大会の“東の横綱”と言われた日大三(東京)と激突。東西の大物対決を僅差で制しての初戦突破で、どちらもチームが波に乗る勝ち上がり方だったのだ。
大会No.1右腕と評された報徳学園のエース・大谷に対し、広陵打線は叩きつける打撃で対抗。2回表に1点を先制する。一方の報徳打線は広陵の西村を機動力で揺さぶる。3回裏に無死一塁のチャンスからヒット・エンド・ランでチャンスを拡大するとスクイズなどで逆転に成功。さらに4回裏にも1点を追加し3‐1とリードを報徳学園は広げた。
このリードを大谷は我慢の投球で必死に守る。6回まで毎回のようにヒットを浴び、被安打は8本。それでも要所で踏ん張っていた。だが、7回表にも2安打を許し、ついに同点とされてしまうのだ。逆に西村は4回の失点以降は報徳打線をノーヒットに抑える好投を見せていた。だからこそ、打線が同点に追いついてくれた7回裏が唯一、悔やまれる回となってしまった。6番・石井孝一に二塁打を打たれた無死二塁から続く7番・木下賢治の送りバントを一塁へ悪送球してしまったのだ。こうしてまさかの勝ち越し点を与えてしまった西村は続く8番・前山優にもセンター前へ運ばれ、ダメ押し点まで献上してしまったのだ。
一方、2点の勝ち越し点をもらった大谷は最後まで気を抜かなかった。9回表にも2死一、二塁と一打同点のピンチを迎えたが、最後は7番の中塚浩太を左飛に仕留めて何とか逃げ切った。133球での完投勝利だったが、結局被安打12を喫し与四死球も4。それでも相手に13残塁を記録させる粘りの投球で勝利を呼び込んだのだ。
接戦を制した報徳はこの後、浦和学院(埼玉)、福井商、そして鳴門工(徳島)といった強豪校を倒して見事に優勝を飾った。
そして西村である。試合には負けたが内容だけ見れば“勝って”いた。7回を投げ被安打7、与四死球2。それでも「あまりうまくないフィールディングを突かれてしまいました。ピッチングも、低めに投げようとしたけれど、相手の打線はしぶとかったです」と課題を口にして甲子園を後にしたのである。
それから1年後。3年生となった西村はふたたび選抜のマウンドに帰ってきた。そしてこの時の雪辱を果たしてみごと、優勝投手に輝いたのである。
(高校野球評論家・上杉純也)=文中敬称略=