この再婚後、オンナ遊びはガ然、全開になる。新聞ゴシップ記事から巷間流れたウワサ話まで、ウソかマコトか目ぼしいところを列挙してみると、次の如しとなる。
●総理になってまだ間がなかった頃、官邸で仮面舞踏会が開かれたが、深夜、官邸の庭の茂みから女性の悲鳴が聞こえた。伊藤が岩倉具視の娘・極子を襲ったのではと、新聞で噂された。
●日本初の女優・川上貞奴の「水揚げ」の相手をしたともっぱらだった。
●次々と芸者に手をつけ、自宅に連れ帰ったが、その途中ガマンができず、馬車の中でコトに及んだことがある。おきんという芸者だったが、翌朝、置屋に戻って女将に「狭い馬車の中はタイヘンだった」と打ち明けたそうだ。「カーセックス第1号」は、どうやら伊藤だったようである。
●40度の高熱を出して床に伏していた伊藤だったが、床の両側に芸者2人をはべらせていた。熱が下がってだいぶ元気になったあと、この2人と「3P」に及んだそうである。
●伊藤家出入りの土木業者の娘の三姉妹を次々に妾にした。札束でその父親を「説得」したとされる。
●大阪の北新地の芸者・お光を妾にしたが、伊藤はその際、ダイヤの指輪をプレゼントした。2人の関係は1年ほどで切れたが、お光はその後、その指輪をしたまま、また座敷に出、「伊藤公のお手がついた芸者」として大人気を博したのだった。
こうした奔放すぎる女性関係に、さすがに伊藤を信頼、かわいがった明治天皇も、「ほどほどにしなさい」と忠告を与えたこともあったのだった。
しかし、後年、伊藤は正夫人として一生を共にした梅子には、ついぞ頭が上がらなかったようで、
「わが輩の一生で有難く思うのは、言うまでもなく天皇陛下だが、その次はおかか(女房)だ」
と口にしていた。
こう見てくると、伊藤はとんでもない男に見えるが、実は敬妻家の一方で日本の「近代化」への取り組みは真摯だった。それは、「芸妓(げいぎ)と遊んで居る時でも──」(『近代日本の政治家』岡義武・岩波現代文庫)という言葉が明らかにしている。
その伊藤のリーダーシップを支えた「胆力」のバックボーンは、妥協を恥じずのバランス感覚、仕事への尽きぬ情熱、若い頃からの決断力と度胸、負けじ魂の大きく4つが浮かび上がる。もとより、ただのオンナ好きではなかった。
■伊藤博文の略歴
天保12年(1841)10月16日周防国(現・山口県)生まれ。明治42年(1909)10月26日ハルビン駅頭で狙撃され死去。享年68。
総理大臣歴:「初代」1885年12月22日~1888年4月30日・「第5代」1892年8月8日~1896年8月31日・「第7代」1898年1月12日~1898年6月30日・「第10代」1900年10月19日~1901年5月10日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。