現今の企業のトップリーダーなどにも、こうしたタイプがいる。周囲はその識見には一目置いているが、存在感に比して社長在任中の実績はとなると、これはといったものが見当たらないのである。しかも、トップリーダーの座を降りても、業界への影響力なお衰えずといった掴みどころのない人物である。
「最後の元老」「日本初の公家総理」として、総理退陣後は大正・昭和初期を通じて次々と内閣を送り出す影響力を持ち続けた西園寺公望が、この手のリーダー像に入る。
西園寺は当時の政界では「異質」と言えた。若い頃、福沢諭吉の著書「西洋事情」に触発され、10年にわたるフランス留学体験をしたことの影響が大きかった。「日本初の大学卒業総理」として、ソルボンヌ大学を卒業した。のちに首相となるクレマンソーや音楽家のリストら文化人と交流、ここでリベラリズム(自由主義)を身につけ、これが生き方、のちの一貫した政治信条になっている。
フランスから帰国後は、自由民権思想で知られる「東洋のルソー」とされた中江兆民とともに「東洋自由新聞」を発行する、「華族が新聞などに関わるのは好ましくない」との周囲の忠告を、「その考え方はおかしい」とハネつけてのそれだった。リベラリズムに基づく、「進取の精神」が横溢していたことが知れるのである。
政界入りは、伊藤博文と憲法調査で渡欧したことを機に、親しくなったことからだった。ともに“気配り体質”で、ウマが合ったのである。その後、伊藤が立憲政友会を組織、やがて枢密院議長に就任すると、西園寺が伊藤に代わって政友会総裁となったことで、桂太郎の後を受けて内閣を率いることになる。しかし、政友会総裁も内閣総理大臣も、ともに西園寺本人はさほど興味はなかったようだ。ためか、第一次、第二次内閣とも、見るべき成果は残していない。
西園寺内閣の課題は、日露戦争後の新しい国家経営ということだったが、戦費のツケとしての財政再建は果たせなかった。また、第二次内閣でも陸軍の二個師団増設問題でイヤ気が差し、ここでは1年4カ月で内閣総辞職をしてしまっている。この間、桂太郎と交互に内閣を組織するという、言うなら“持ち回り”の「桂園内閣」で凌いだが、何をやろうとしたのか見えぬままに終始した。ために、西園寺総理の実現にひと汗かいた原敬は、うっぷんを晴らすように、こう言ったものである。
「(西園寺総理は)ややもすれば投げ出さんとする」(「原敬日記」原奎一郎編・福村出版)と、追い詰められるとすぐに投げ出す責任感の乏しさ、無気力ぶりを批判したものである。
一方、西園寺の「胆力」は、総理退陣後に「キングメーカー」として発揮された。元老として、以後の総理を天皇に進言する「奏薦(そうせん)制度」を一手に握り、軍部の台頭に対してリベラリズムを死守するかのように、清浦奎吾、若槻礼次郎、犬養毅、斎藤実、広田弘毅と5代の内閣を送り出した。
しかし、自らがフランス留学で体得、その実践を夢見たリベラル政治の完成とはほど遠く、晩年、前掲の「政治のレベルは、結局、国民の民度以上にはならぬものだ」と木戸孝允の孫の幸一に漏らしている。国民の民度以上の政治が行われないのは、今もって古今東西変わらずの“至言”となっているのである。
■西園寺公望の略歴
嘉永2年(1849)12月7日、京都生まれ。ソルボンヌ大学卒業。第二次伊藤内閣文相兼外相、第三次でも文相を歴任した。枢密院議長、政友会総裁を経て、内閣を組織。総理就任時、56歳。パリ講和会議首席全権。昭和15年(1940)11月24日、91歳で死去。国葬。
総理大臣歴:第12代1906年1月7日~1908年7月14日、第14代1911年8月30日~1912年12月21日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。